『歴史の時々変遷』(全361回)169”野田城の戦い“ 「野田城の戦い」元亀4年(1573)1月から2月にかけて、三河国野田城をめぐり、武田信玄率いる武田軍と徳川家

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『歴史の時々変遷』(全361回)169”野田城の戦い“
「野田城の戦い」元亀4年(1573)1月から2月にかけて、三河国野田城をめぐり、武田信玄率いる武田軍と徳川家の間で行われた戦い。西上作戦の最終盤の戦いであり、三方ヶ原の戦いの関連で紹介されることもある。武田信玄最後の戦としても有名である。元亀3年9月、武田信玄は西上作戦を発動し、徳川家康の所領であった遠江及び三河に30,000の軍勢を率いて攻め込む。12月に武田軍は遠江国三方ヶ原で徳川家康率いる徳川・織田連合軍を相手に大勝したが、遠江国浜名湖北岸の小さな村であった形部村に滞在し越年する。半月後の元亀4年1月10日に同地を発ち、細かく宿泊を重ねて宇利峠から三河へ進入。豊川を渡河、徳川方の三河における属城のひとつである野田城を包囲した。一方の徳川家は、三方ヶ原の戦いによる大敗によって戦線を維持できるような状態ではなく、後詰のしにくい状態にあった。また、野田城(正確には改築のための仮城であった大野田城)は元亀2年の武田方の侵攻の際に落とされた城の1つで、そのときの教訓を元に防衛機能を高めて改築された城であった。野田城は『三河物語』において「藪のうちに小城あり」と言われるほどの小さな城であり、兵力も城将・菅沼定盈とその援軍合わせて500名程度であった。しかし、河岸段丘の地形を利用した築城によって攻め口が限られてくるため、武田の大軍を相手にするには有利な構造となっていた。それでも兵力30,000を有する武田方の有利は変わらなかったが、武田軍は力攻めは行わず、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。結果として野田城は1ヶ月持ちこたえたが、2月16日に城兵の助命を条件に開城降伏し、定盈は捕虜として武田軍に連行された。なお、定盈の子孫が記した『菅沼家譜』によれば、途中家康が後詰に現れたが豊川の対岸山頂で引き返してしまったという。野田城が落ちたことで、徳川家の三河防衛網が崩壊し、いよいよ徳川家の重要拠点であった吉田城や岡崎城が危機に陥った。しかし、武田軍は信玄の病状が悪化したため侵攻を止めて甲斐へと引き返し、その道中で信玄は亡くなった。3月10日に城主・定盈が徳川家と武田家の人質交換で解放された。信玄の死が広まった直後に家康は長篠城を奪還するが、野田城も翌天正2年(1574年)に定盈によって奪還され、定盈が再度城主として入城している。野田城の戦いはそれまでの武田方の戦に比べて非常に遅かったことがよく挙げられる。要所であり堅城であった二俣城とは違い、野田城は小城に過ぎず、兵力差も圧倒的であった武田軍があえて消極策を取ったことには様々な説がある。不自然に長かった直前の形部村で滞在も含めて、通説では信玄の病状が悪化したためだとされる。西上作戦の途上である元亀4年(1573年)4月12日に信濃伊那郡駒場(異説あり)において死去したとされる信玄だが、その死因は病死であると考えられている。ところが後代に生じた信玄死因の異説として、野田城を包囲していた時に狙撃された傷を原因とするものがある。より具体的には『松平記』に信玄が美しい笛の音に誘われて本陣を出たときに定盈の家臣・鳥居三左衛門に狙撃されたという。豊川を挟んで野田城を見下す、標高125mの小山で武田軍の精鋭(腕のたつ者=腕こく者)が軍議を開いたことからその山は「うでこき山」の名が付けられたという(同山の頂上付近に由来の銘板が設置されている)。ただしこれには異説があり、新城市の郷土史では「大昔、神様は近江の土をすくって琵琶湖を作り、その土を駿河・甲斐あたりに盛って冨士山を作ったが、その時神様の腕についてた土埃をこいて落としたものがうでこき山である」とも紹介されている。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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