『戦国時代の群像』93(全192回)「最上 義光」(1546~1614)戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる

最上8
『戦国時代の群像』93(全192回)「最上 義光」(1546~1614)戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、最上家を57万石[1]の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。兜は、三十八間金覆輪筋兜。天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将の娘との間に長男として生まれる。幼名は白寿丸。永禄3年(1560年)に元服し(永禄元年1558年とも)、将軍・足利義輝より偏諱を賜り、源五郎義光と名乗った。この年3月、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。永禄6年(1563年)、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁し、この時義守・義光父子は幕府より御所号で遇されている[3]。永禄7年(1564年)には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。家督相続を巡る一連の抗争が義光の勝利に終わった後も、最上氏庶流の天童頼貞・東根頼景・上山満兼などは依然として義光に従わず、谷地城主・白鳥長久は、最上氏の家職である羽州探題を自称し、中央の実力者織田信長に出羽守への推任を願い出るなど、この時点ではまだ最上一郡の支配すらもおぼつかない状態であった。そのため義光はまず家中法度の整備など足場固めに努め、しかる後に羽州探題・最上氏の勢威を回復させるための戦に乗り出した。天正5年(1577年)、天童頼貞を盟主とする最上八楯と戦うも決着せず、和睦して頼貞の娘(天童御前)を義光の側室に迎えた。天正12年(1584年)、義光は白鳥長久の娘を嫡男・義康の室に迎えることで懐柔しようとしたが応じなかったため、病で危篤に陥ったと偽って長久を山形城に誘き出して自ら斬殺すると、ただちに谷地城を攻略した。続いて寒河江城主・寒河江高基を攻めて自害させ、寒河江氏を滅した。また、父・頼貞の跡を継いだ天童頼澄を攻めるも、最上八楯の一人・延沢満延の奮戦で最上軍は敗退する。そこで義光は、満延の嫡男・又五郎に次女・松尾姫を嫁がせて、満延を引き抜くと、さらに東根頼景の家老・里見源右衛門を内応させて東根城を攻略する。追い詰められた頼澄は国分盛重を頼って落ち延びた。こうして天童氏を盟主とする最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めた。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、宇都宮城にて夫人と秀吉に拝謁し本領24万石[5][註 7]の安堵を受けた。この時、義光は直前に没した父・義守の葬儀のため甥・政宗よりさらに遅参しているが、事前に家康と交渉していた成果もあり、咎めはなかった(小田原参陣前に義光が秋田実季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とある)。また奥州仕置の際に発生した仙北一揆に乗じて小野寺領に出兵し、雄勝郡(上浦郡の一部)を削り取った。天正19年(1591年)正月は京都に上洛し、従四位下侍従に補任された[7]。同年家康が九戸政実の乱の征伐に来た際に、次男・家親を諸大名に先駆けて徳川家の小姓として出仕させた。この討伐に同行していた豊臣秀次が山形城に立ち寄った際、三女・駒姫の美貌に目をつけ、義光に側室に差し出すよう執拗に迫った(山形城に秀次は立ち寄らず、美貌の噂を聞いて迫ったという説もある)。義光は断ったが、度重なる要求に屈し渋々娘を差し出すこととなった。駒姫の成長を待って欲しいというのが、彼のせめてもの抵抗であった。また、三男・義親を秀吉に仕えさせ、最上家の安泰をはかった。天正20年(1592年)、朝鮮出兵に備えて肥前名護屋に滞陣するも、渡海はせずに済んだ。名護屋在陣中、国許の家臣・伊良子信濃守に対して「いのちのうちニ、いま一ともかみのつちをふみ申たく候、みつを一はいのみたく候」という主旨の書状を送って本音を吐露しており[8]、戦況が厳しくなるなかで、望郷心が強くなっていることを示す記述がなされている[9]。同年より山形城の改築に取り組み始めた。このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられる[10]。文禄3年(1594年)、小野寺義道の忠臣・八柏道為に偽の書状を送る。この計略にはまった義道は道為を成敗した。その後、義道は義光相手に連敗し関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)では西軍に味方し、戦後改易された。文禄4年(1595年)、秀次が謀叛の疑いで切腹させられた際(秀次事件)、娘の駒姫も連座して京三条河原で処刑された。15歳だった。一説では、駒姫は実質的には秀次の側室でさえなかったという。義光は必死で助命嘆願をしたが間に合わなかった。義光夫妻の悲嘆は激しく、悲報を聞いた義光は数日間食事を摂ることもままならず、駒姫の生母・大崎氏はまもなく駒姫の後を追うように死亡している。前田利家・上杉景勝ら28名とともに連名で起請文を出すが疑いは晴れず、政宗らと共に秀次への加担を疑われ謹慎処分を受ける。この時、父の無事を息子・義康と家親が祈願していることからも、相当追い詰められた義光の立場が判る。この処分は間もなく解けたが、義光の秀吉に対する憎悪は決定的なものとなった。これ以降、慶長伏見地震の直後に秀吉ではなく家康の護衛に駆けつける、秀吉から茶に招かれた家康を自発的に護衛する等、徳川方への傾斜をますます強めていく。慶長5年(1600年)、家康は会津の景勝が軍備を増強していることを詰問する。上杉家の重臣・直江兼続はこれに対して絶縁状ともいえる直江状で返答した。これを受けた家康は同年6月、家康は会津征伐を開始した。義光ら奥羽の諸将は東軍(徳川方)に味方し、米沢城攻撃のため最上領内に集結していった。しかし、家康が会津征伐に赴く最中に、上杉氏と昵懇であった石田三成らが、反家康を名目にして上方で挙兵した。家康はこれを知ると会津攻撃を中止し、義光、政宗、結城秀康らに景勝の牽制を命じ上方に引き返した。景勝は直江兼続に2万~2万4千余の軍勢を預け、最上領侵攻を開始した。これに対抗する最上軍は7,000余(実際は小野寺義道を牽制するため庄内に出兵していたため、さらに少なく3,000余)でしかなかったが、上杉軍に対して義光は2,000挺もの鉄砲を駆使して抗戦した。わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令を無視し籠城した。光清の器量を惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。光清父子に率いられた守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1,000名に近い死傷者を出す損害を与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅、畑谷城は陥落した。続いて上杉軍は山形城の要である長谷堂城を攻撃するが、守将・志村光安率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り、鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将・上泉泰綱を討ち取るなど多くの戦果を挙げた。他にも上山城の里見民部、湯沢城の楯岡満茂ら最上勢の守将は善戦し、上杉勢・小野寺勢相手に城を守り抜いた。義光は嫡子・義康を派遣し、甥・政宗に援軍を要請した。この頃政宗は、南部利直が最上領に援軍として向かったことを知ると、和賀忠親を煽動し一揆を起こさせ領土拡大を狙っていた(岩崎一揆)。政宗は留守政景率いる約3,000の援軍を派遣したが、最上領で戦局を見守るに留まった。一説によれば、政宗は重臣・片倉景綱から「山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得るべし」との献策を受けていたが、母・義姫が山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。義光は上杉軍を撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有を認められ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と引き換えた)計57万石を領し、出羽山形藩の初代藩主となった。また、秋田実季が東軍を裏切ったとする訴えは、実季を常陸国に移封させる要因の一つともなった。居城である山形城を改築し、国内有数の広さの平城に拡張するとともに、城下町の整備に取りかかった。まず、商人町を整備するため、山形城下においては地子銭・年貢を免除し、間口四間半から五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分け与えるとともに、羽州街道・笹谷街道沿いに定期市を設けた。さらに上杉から奪い返した日本海の要津・酒田港を最大限に活用すべく、庄内から山形へ通じる二本の街道を改修・拡幅するとともに、最上川の三難所を開削して水運の安全性を高め、領内の流通を盛んにして藩財政を大いに潤した。また職人町は「御免町」として諸役が免除され、職人の中には家臣並の待遇を受けた者も居た。当時の町数は31、町屋敷は 2,319軒で人口19,796人。これに家臣団を加えると人口は3万人を超えた。農政面では、治水工事を積極的に推進し、北楯利長・新関久正らに命じ北楯大堰・因幡堰などの疏水を開削して用水問題を解決し、庄内平野の開発を進め、農業生産力を大きく向上させた。最上時代に築かれたこれらの疏水は、今なお庄内平野を潤し続けている。大宝寺城を改築して鶴ヶ岡城と改称し、自らの隠居所とした。義光と嫡男・義康の関係は当初良好であったが、家臣の讒言によっていつの間にか険悪なものとなっていた。このことは、家親に家督を継がせたい幕府や、それを利用せんとした家臣の思惑も絡んでいたと言われている。そんな中、慶長8年(1603年、1611年説もあり)、義康が何者か(重臣里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門か?)によって暗殺された。この事件については未だ詳細は不明であり、義光の意向によるものとされることもあるが、家臣たちの単独犯行説もありはっきりしない(最上義康参照)。慶長16年(1611年)3月、従四位上、左近衛少将と出羽守に叙位・任官する。その後、駿府城新築祝いのために駿府に上府したが、この頃から病がちになる。翌年堀普請を激励する文には、体調が良ければ現場に行きたいという趣旨を書き悔しがっている[15]慶長18年(1613年)、体調は一層悪化したと思われ、正月の拝賀は使者が赴いている。同年4月、義光は病躯を引きずるようにして江戸に上り将軍・徳川秀忠に謁見、さらにその後駿府に向かうが神奈川から使者を出したようである。9月、再び駿府の家康に謁して最上家の今後を託し、家康から薬などを下賜された。また、「天下呑分の杯」を拝領した。その後江戸城で秀忠に拝謁し、家親が江戸に在勤している間の国役三分の一を免除された。明けて慶長19年(1614年)1月18日未刻、山形城に帰還してまもなく病死した。享年69。葬儀当日、寒河江肥前守、寒河江十兵衛、長岡但馬守、山家河内守の4人の家臣が殉死した。義光の墓所は山形市鉄砲町の光禅寺にある。光禅寺は創建当初現在の七日町に在ったが、鳥居氏転封の際鳥居氏の菩提所長源寺と改められ、光禅寺は旧臣らの手によって現在地に移転された。義光の死後、後を継いだ家親は元和3年(1617年)に急死した。このため、家親の子・義俊が後を継いだが、後継者をめぐる抗争が勃発し家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後の元和8年(1622年)に改易となった(最上騒動)。義俊の死後はさらに石高を1万石から5,000石に減らされ、最上家は交代寄合として明治維新を迎えた。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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