『歴史の時々変遷』(全361回)158“久米田の戦い” 「久米田の戦い」永禄5年(1562)3月5日、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現大阪府岸和田市)に布陣する三好実休に対

久米田1
『歴史の時々変遷』(全361回)158“久米田の戦い”
「久米田の戦い」永禄5年(1562)3月5日、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現大阪府岸和田市)に布陣する三好実休に対し、畠山高政が攻め入った合戦。両軍併せて17,000から50,000の兵力が激突し、三好実休はこの合戦にて戦死を遂げ、三好氏没落の遠因となった合戦とされる。同時期に、六角義賢が畠山高政と同調して京都でも三好氏と戦となったため、別名「南北接激戦」とも言われている。第13代将軍・足利義輝を擁した三好長慶が、永禄4年(1561)5月6日に前管領・細川晴元と和睦するように義輝より勧められた。長慶は使者として三好長逸、松永久秀を逢坂山に出迎え晴元は8年ぶりに入京した。晴元と義輝の対面が終わると、長慶は晴元を普門寺城に幽閉してしまった。その後、晴元の長男・昭元も普門寺城に入城させられ、長慶の監視下に置かれることになる。これに激怒した六角義賢は晴元・信良父子の処遇に非難し、兵をあげることになる(義賢の妻は晴元の妹であった)。同年3月18日には三好方の岸和田城城主であった長慶の弟・十河一存が死亡しており、長慶に破れ紀伊国に落ち延びていた畠山高政は打倒長慶を旗印に呼号していた。三好軍の防備力は落ちていると見たのか、六角義賢と畠山高政らは互いに手を組み、京都を含めた畿内において兵をあげることになった。こうして、同年7月13日、畠山高政を総大将に、安見宗房、遊佐信教、根来衆1万兵で岸和田城を取り囲んだ。また同月28日、六角義賢は永原重隆を大将に2万兵を率いて、将軍地蔵山城に布陣した。この時、三好長慶は飯盛山城におり、息子の芥川山城城主・三好義興ら摂津衆7千兵で梅津城・郡城へ、家臣の信貴山城城主・松永久秀ら大和衆7千兵を京西院小泉城へそれぞれ入城させ、将軍地蔵山城の備えとした。また、岸和田城の援軍として、総大将に弟の高屋城城主・三好実休ら河内衆を、三好長逸、三好康長、三好政康、篠原長房ら淡路、阿波衆7千兵を呼び寄せ、岸和田城に向かわせたが畠山軍が取り囲んでいたため、そこから数町離れた久米田寺周辺にある貝吹山城に陣をはった。11月24日、六角軍が攻勢に出た。まず六角義賢自ら陣頭に立ち将軍地蔵山城を出軍、白川口にある神楽岡を占領したが、松永軍が直ちに迎撃し、永原重隆をはじめ多くの諸将を討ち取られ将軍地蔵山城に退却した(松永軍に追撃を受けたが撃退した)。一方、貝吹山城は旗色が悪く、三好実休軍の諸将が数名討ち取られた。また12月25日、飯盛山城の支城となっていた三箇城の城主・三好政成が畠山軍の武将・宮崎隠岐守の奇襲にあい、討ち死にしてしまった。三好政成は三好政康の兄で、堺幕府の時から朝廷との折衝役で三好氏の重鎮であった。そのような緊張状態の中、翌永禄5年(1562年)正月、三好義興、松永久秀らは足利義輝への謹賀の挨拶に訪れている。この間も小さな戦闘は何度かあり、特に三好実休軍は長い対陣で疲労しつつあった。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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