『戦国時代の群像』84(全192回)池田 恒興(1536~1584)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の家臣。池田恒利の子。子に元助、輝政など。尾張犬山城主、摂津兵庫城主

池田1
『戦国時代の群像』84(全192回)池田 恒興(1536~1584)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の家臣。池田恒利の子。子に元助、輝政など。尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。天文5年(1536)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。母は養徳院。養徳院は織田信長の乳母であり、信長の乳母兄弟にあたる。信長の尾張時代から付き添い、すべての戦闘に従軍した。天正8年(1580)、荒木村重の謀反が発生すると、その一族である荒木志摩守元清が籠城していた花隈城を攻め、落城させた(花隈城の戦い)。荒木村重の謀反が終息すると、恒興はその旧領を賜った。天正10年6月2日(1582)、信長が家臣の明智光秀の謀反に遭い、本能寺で自害した(本能寺の変)。恒興は羽柴秀吉と共同して光秀を破り、清須会議の裁定によって四宿老(柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興)に列した。清須会議の後は秀吉に従って賤ヶ岳の戦いに参戦し、その功績から織田信孝(神戸信孝)の旧領13万石と大垣城を与えられた天正11年(1583)。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは娘婿の森長可と共同で犬山城を攻略したが、羽黒の戦いでは徳川家康の家臣である酒井忠次らに敗れ、敗走した。その後、徳川家康の本領・三河国を攻撃しようとした羽柴秀次軍に従軍したが、長久手において討ち死にした。享年は49歳であった。


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