『歴史の時々変遷』(全361回)157”桶狭間の戦い“ 「桶狭間の戦い」永禄3年5月19日(1560)に尾張国桶狭間で行われた合戦。2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子

桶狭間4 (2)
『歴史の時々変遷』(全361回)157”桶狭間の戦い“
「桶狭間の戦い」永禄3年5月19日(1560)に尾張国桶狭間で行われた合戦。2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた、日本三大奇襲(日本三大夜戦)に数えられる日本の歴史上有名な戦いである。戦後、東海道に君臨した今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急成長し、戦国時代の重要な転機となった。別名「桶狭間村・田楽狭間の戦い」。15世紀末、駿河国守護の今川氏親は東海地方において勢力を拡大し、後を継いだ今川義元は駿府を本拠とし駿河・遠江に領国を形成する。また、甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた。尾張国では守護・斯波氏の家臣で清洲織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定、織田信秀と二代に渡り領土を広げ、今川氏と三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って争うようになる。西三河を支配していた国衆である松平氏が当主の相次ぐ横死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いでは織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。しかし、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。翌年、今川方が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略したことによって、織田氏の三河進出は挫折に終わった。さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病没、後を継いだ織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海・笠寺両城を守る山口氏が今川方に投降。加えて山口氏の調略によって尾張東南の大高城、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ちた。この4城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通以前の知多半島は不毛地帯であったため、そこを押さえられても農業生産性、ひいては兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。尾張西南の蟹江城も今川方に攻略されており、伊勢湾海域の制海権が徐々に侵略されつつあった。織田氏も今川氏の進出阻止や逆襲に動いた。1554年には知多の領主である水野氏を支援して今川方の村木砦を攻め落とした。笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで圧迫し、城相互の連絡を遮断した。この情勢の下、永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日(6月10日)、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日(6月11日)夜、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。一方の織田方は清洲城に篭城するか、出撃するべきかで軍議が紛糾していた。翌19日(6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞「敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前4時頃に居城清洲城より出発。小姓衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神社に到着。その後軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000から3,000人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500名余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死した。鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗、織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進んだ。その後進路を南に取った。一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下500余りを置き、2,000の兵で出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した。正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に気を良くした。13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹だった可能性がある。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。今川軍の総勢は2万人であったとされるが、義元を守る兵力は5,000から6,000人に過ぎずに、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。『信長公記』によれば、義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。『改正三河後風土記』によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。総大将であり今川家の前当主である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わった。今川家の実質的な当主の今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。大高城を守っていた松平元康も戦場を離れ、大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹し果てようとした。その時当寺13代住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き、元康は切腹を思いとどまった。そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は今川軍の城代山田景隆が捨てて逃げた岡崎城にたどりついた。尾張・三河の国境で今川方に就いた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城、駿河に帰る途上水野信元の刈谷城を攻撃し水野信近を討ち取るなどし、義元の首を携えて駿河に帰国した。一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。
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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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