『戦国時代の群像』82(全192回)「斎藤 義龍」(1527~1561)戦国時代の武将。美濃国の戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主(美濃一色氏初代とする説もある)。室町幕府相伴衆

斎藤1
『戦国時代の群像』82(全192回)「斎藤 義龍」(1527~1561)戦国時代の武将。美濃国の戦国大名。道三流斎藤氏の第2代当主(美濃一色氏初代とする説もある)。室町幕府相伴衆。大永7年(1527)7月8日、初代当主・斎藤利政(道三)の嫡男として生まれる。母は側室の深芳野。初名は利尚、高政[1]といった。 天文23年(1554)、道三が隠居したため、美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となる。この隠居は父・道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。その後、道三は義龍を「耄者(おいぼれ)」と断じ、「利口者」の孫四郎や喜平次らを溺愛するようになる。さらに義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとし、末弟の喜平次には「一色右兵衛大輔」と名門一色氏を名乗らせた[3]ことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。弘治元年(1555)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀して、弟の孫四郎・喜平次らをおびき出して日根野弘就に殺害させたため、仰天した道三は大桑城に落ち延びた。弘治2年(1556)、義龍は長良川にて道三と対峙、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした(長良川の戦い)。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。義龍と多少の戦闘をしつつ信長は撤退した。その後は、貫高制に基づいた安堵状を発給して長年の内乱で混乱した所領問題を処理し、また宿老による合議制を導入するなど、室町時代の体制を生かしながら、戦争に明け暮れていた道三の下では十分実現し得なかった守護領国制の残滓を排して、戦国大名としての基礎を築いた。後に剃髪して玄龍と号している。斎藤道三の末子である斎藤利治が尾張の織田家に亡命し、織田信長より偏諱を与えられ長龍と改名し美濃斎藤家当主を名乗る。義龍は尾張織田家との戦闘が続くなか京都の将軍・足利義輝より一色氏を称することを許され美濃守護代家斎藤氏より改名、永禄元年(1558)に治部大輔に任官し、永禄2年(1559)には足利幕府相伴衆に列せられ戦国大名としての大義名分を得た。さらに南近江の六角義賢と同盟を結び、北近江の浅井久政とも戦う[注釈 4]。しかし尾張国の織田信長の侵攻がより激しくなるなどの不利な条件もあり、勢力拡大は果たせなかった。永禄4年(1561)、左京大夫(左京兆)に任じられるが、同年の5月11日に急死した。享年35。後を子の龍興が継いだ。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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