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>『歴史の時々変遷』(全361回)155“厳島の戦い” 「厳島の戦い」天文24年10月1日(1555)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦である

厳島4 (2)
『歴史の時々変遷』(全361回)155“厳島の戦い”
「厳島の戦い」天文24年10月1日(1555)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦である。天文20年(1551年)の大寧寺の変で、大内義隆を討った陶隆房(変後に晴賢に改名)は大内氏の実権を握った。周防国・長門国を本拠とする大内氏は安芸国や石見国の国人たちも傘下に収めていたが、石見三本松城(現在の津和野城)の吉見正頼が陶打倒を掲げて挙兵したため、天文23年(1554)3月に三本松城の戦いが発生。大内・陶の軍勢は三本松城を包囲し、安芸の毛利元就にも参陣を呼びかけたが、同年5月に元就は大内・陶と決別して桜尾城など4城を攻略し、厳島まで占領する。陶氏との対決に備えて、厳島・広島湾周辺の諸城や水軍の守りを固めた。安芸を掌握した毛利氏は、5月15日には周防国玖珂郡まで侵入して小瀬・御庄(岩国市)で陶軍と交戦する。 反旗を翻した元就に対して陶晴賢は家臣の宮川房長を急派するが、宮川勢は6月5日に折敷畑の戦いで敗北した。大内氏・陶氏と毛利氏の関係が決裂した天文23年(1554年)春から、厳島で合戦が生じる翌24年(1555年)秋までの間に、直接的な軍事衝突以外にも次のような外交・調略の動きがあったとされる。★尼子氏への対応・折敷畑の戦い直後となる6月7日付けで陶晴賢が石見の益田藤兼に送った書状では、雲州(出雲国を本拠とする尼子氏)についての記述があり、尼子氏と連合して毛利氏を挟撃することが検討されていた。対する毛利元就は、尼子氏と敵対していた三村氏(備中国)や福屋氏(石見国)を支援することで尼子氏の牽制に動いている。★少弐冬尚への密書・月10日、元就は九州肥前国の少弐冬尚に密書を送り、挙兵を促した。少弐氏は大内氏に攻められて九州北部の領地(豊前国と筑前国)を奪われており、大内氏・陶氏への牽制を狙ったものと思われる。★来島水軍との婚姻・天文23年頃、毛利氏は村上水軍の一族である村上通康(来島村上氏)と姻戚関係を結んでいる。これは、毛利家の一門衆である宍戸隆家の嫡女を小早川隆景の養女にした上で通康へと嫁がせたもので、毛利方にとって大きな力になったと考えられる。★江良房栄の内通と暗殺・陶家臣である江良房栄に対して毛利方の調略が行われ、天文24年2月19日には300貫の所領(毛利家の譜代重臣らの所領に匹敵する)を条件に内応に応諾した[。『桂岌円覚書』によると、房栄は晴賢に対して毛利との和睦を進言したとされ、元就の力量を知っていた人物と言われる。しかし、房栄がさらなる加増を要求してきたため、元就は房栄の誅殺を意図して内通交渉を大内方に流した。それを知った晴賢から命を受けた弘中隆包により、3月16日に岩国の琥珀院で房栄は討たれた。なお、房栄の加増要求に対して隆元が怒ったことは史料(毛利家文書 709号)で確認できるため、房栄の内応は事実と考えられるが[1]、軍記物で描かれる通りに元就の謀略で暗殺されたかどうかは定かでは無いと言われる。★桂元澄の偽装内通・厳島の戦いにかかわる逸話のひとつに、桜尾城主桂元澄が陶方への内通を偽装したという話が軍記物では伝わる。かつて元就の家督相続に絡んで異母弟・相合元綱とその支持者(元澄の祖父である坂広明が含まれる)が粛清された時に元澄の父・桂広澄が自害しており、残された元澄も一度は元就と戦おうとしていた過去があったため、「元就には遺恨がある」として陶方に内通を申し出る密書や起請文を元澄は送った。厳島での戦闘は後述の弘中隊の抵抗を除いて、14時頃までにはほぼ終結した。10月2日〜5日陶軍主力を壊滅させた元就は、島に散り散りとなった敗残兵を掃討するため山狩りを命じた。一方、大聖院付近で吉川元春らと交戦した後に撤退していた弘中隆包は、大聖院を経て弥山沿いの谷を駆け登っており、手勢100〜300を率いて隣接する山の絵馬ヶ岳[13](現在の駒ケ林)にある龍ヶ馬場と呼ばれる岩場に立て籠もっていた。山頂を包囲した吉川勢の猛攻に激しく抗戦した隆包であったが3日に討ち死、弘中隆助を含め弘中隊は全滅した。5日、晴賢の首を探していた毛利軍が、晴賢の草履取りである少年を捕らえ、助命と引き替えに、晴賢の首級の隠し場所を聞き出した。首級を発見した元就は、軍勢を厳島から引き上げて対岸の桜尾城に凱旋、同城で首実検が行なわれた。この首実検の際に元就は「主君を討って八虐を犯した逆臣である」として晴賢の首を鞭で3度叩いた。その後、晴賢の首は洞雲寺(廿日市市)に葬られた。『吉田物語』の記述では、この戦いで討たれた陶兵は4,780人にのぼり、捕虜も3000余人とされる。厳島は島全体が信仰の対象とされる厳島神社の神域であるため、元就は死者を全て対岸の大野に運び出し、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせた。また、血で汚れた厳島神社の社殿から回廊に至るまで全てを潮水で洗い流して清めさせ、合戦翌日から7日間に渡り神楽などを奉納し、万部経会を行って死者の冥福を祈った。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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