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『歴史の時々変遷』(全361回)154“神辺合戦” 「神辺合戦」天文12年(1543年)6月から天文18年(1549)9月4日まで、備後国神辺城(広島県福山市)を巡って大内氏・毛利氏と山名理興(尼子氏側勢力)の間で行われた一連の戦いである

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『歴史の時々変遷』(全361回)154“神辺合戦”
「神辺合戦」天文12年(1543年)6月から天文18年(1549)9月4日まで、備後国神辺城(広島県福山市)を巡って大内氏・毛利氏と山名理興(尼子氏側勢力)の間で行われた一連の戦いである。6年以上に渡って断続的に行われ、大内・毛利方が勝利した。なお、この戦いは「神辺城の戦い」などと表記されることも多いが、当時の城名は「村尾城」であり、「神辺城」の名は16世紀末以降に付けられている。本項では、現在の名称である「神辺城」で表記する。備後国の有力国人であった山名理興は、安那郡にある神辺城を居城とし、大内氏と結んで備後の外郡(そとごおり=備後国南部の沿岸地域)一帯に勢力を伸ばしていた。しかし、尼子氏の本拠地出雲国に遠征していた大内軍が天文12年(1543)5月に敗北すると、山名理興は大内方から尼子方に鞍替え、大内方勢力と対立する。尼子氏の後ろ盾でさらに勢力拡大を図る理興は、出雲遠征の失敗で当主を失ったばかりの竹原小早川氏を標的として攻め込むが、大内軍は安芸国の最有力国人である毛利元就と共に反撃する。天文12年6月、早速行動を起こした山名理興は、竹原小早川領の椋梨(現・広島県三原市)へ兵を進めた。しかし、救援として出陣した毛利軍が山名軍の侵攻を阻止。翌7月には、安芸槌山城に駐留していた大内重臣の弘中隆包も来援する。10月には山名側の援軍として来た尼子軍が撃退されてしまったため、攻勢に転じた大内・毛利軍は年末に神辺城まで攻め込んだ。理興は神辺城の防衛に成功したが、ここからが神辺の戦いとされる。天文13年(1544)になると、尼子氏の備後国攻略の橋頭堡である山名を支援すべく、3月には同国甲奴郡の田総に、7月には双三郡布野に(布野崩れ)、10月には豊田郡の高山城に尼子軍が進出するが、いずれも成果を挙げることはできなかった。一方、尼子軍を退けた大内・毛利軍だが、堅固な神辺城を攻略することはできなかった。同年11月、元就の三男徳寿丸(後の小早川隆景)が竹原小早川家の当主となり、小早川氏は毛利一門に組み込まれた。これに先立つ8月頃に大内氏より竹原小早川氏に対して、神辺城の南東にある五箇庄(大門・引野・能島・野々浜・津之下)を押さえて城を築くよう指示されている。これは、現在は埋め立てられているが、当時の大門湾にあった港が備中国の尼子方勢力との中継点であったため、水軍を持っていた小早川軍による海からの攻略が狙いであった。天文15年(1546)ないし翌16年に、竹原小早川軍は大門湾周辺の手城島城や明智山城を落とし、大門湾周辺の占拠に成功する。重要な支城を失った山名軍は、神辺城と大門湾の中間に位置する坪生庄の竜王山に出城(坪生要害)を築いて対抗しようとした。しかし、天文16年(1547)4月28日には坪生要害も陥落。この戦いに関する感状の幾つかに「隆景」の署名があるため、この時期に徳寿丸は元服し、坪生要害攻めで初陣を飾ったとされる。同時に、大内・毛利の主力軍は陸路で神辺城を目指した。12月下旬には、国境まで近づいてきた尼子氏の救援軍を、大内家臣小原隆言が退ける。山名家家老の杉原盛重の奮戦もあって、神辺城の攻略にこそ至っていないものの、外郡に加えて内郡も大内軍の勢力下となり、神辺城は孤立した。天文17年(1548)6月、大内・毛利軍による神辺城総攻撃が行われる。陰徳太平記の"備後国神辺城合戦之事"によれば、大内義隆より総大将を命じられた陶興房率いる周防国・長門国の軍勢5,000余騎に、毛利元就と毛利隆元・吉川元春・小早川隆景・平賀隆宗・宍戸隆家・香川光景らの兵を加えた10,000余騎とされる。総勢16,000余騎とする説もある。対する神辺城守兵は僅か1,000から1,500であった。陰徳太平記では、吉川家の家督を継いで初の戦いとなる元春が、6月23日に1,000余騎を率いて神辺城下に火を放ったところ、杉原左ェ衛門太夫の手勢300余騎と交戦。これを見た杉原盛重が1,000余騎を率いて元春隊に攻めかかるが、勢い盛んな元春は押し返して城の柵際まで攻め、負傷し盛重が兵を退いたと伝えている。大内氏実録では6月2日に毛利軍と山名軍の戦いが、陰徳太平記では6月18日と20日に総攻撃があったとされる。6月の戦いについては、元就・隆元父子が家臣に多くの感状を出しており「城越之鑓(やり)」という表現があることから、城の柵や塀越しの攻防が展開されたと思われるが、激戦の末に理興はその猛攻を凌ぎきった。7月には、大内義隆から小原隆言・弘中隆包に対して稲薙(青田刈り)を行うよう指示がある。この稲薙には、安芸西条の大内兵に加え、備後内郡の国人である馬屋原氏なども動員され、かなり大規模に行われた。なお、馬屋原氏への指示は毛利氏を通じて行われていることから、備後国内陸部の国人衆については、元就が統率していたと考えられる。年を越した天文18年(1549)2月14日に、元就は元春・隆景を伴って山口へ向かい、3月5日には大内義隆と謁見している。この山口訪問は同年5月まで続いているが、陶隆房も備後から周防へ帰国しており、山口で元就らと会談している。一方、2月には城麓で、4月には七日市や籠屋口で大きな戦いが発生したが、神辺城は持ちこたえていた。大軍を率いて遠地に長期帯陣することを懸念した平賀隆宗の建言により、神辺城の北方にある要害山に向城(要害山城)を築くと、平賀氏の手勢800を残して陶や毛利などの大内主力軍は撤退する。なお、隆宗が城攻めの一任を求めた理由として、理興に対して少なからず遺恨があるためとしている。なお、隆宗が"陣中より"申し出たのは天文18年4月とされる。山名理興と平賀隆宗は幾度も小競り合いを繰り返していたようで、陰徳太平記には、3日間に渡って行われた両者が戦った様子を、"平賀杉原合戦之事として書いている。その後も山名理興と平賀隆宗の対峙は続くが、7月3日に隆宗が陣中で病没する。しかし、残った平賀勢は弔合戦として城攻めを続行。ついに9月4日の夜に、理興は神辺城を捨てて逃亡したことで、神辺合戦は落着した。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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