「温故知新」        川村一彦

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>『戦国時代の群像』79(全192回) 「島津 義久](1533~1611)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ

島津4
『戦国時代の群像』79(全192回)
「島津 義久](1533~1611)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の島津忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。元服した直後は祖父と同じ忠良(ただよし)を諱とし、通称は又三郎と名乗った。後に第13代将軍・足利義輝からの偏諱(「義」の1字)を受け、義辰(よしたつ)、後に義久と改名している(以下、本記事中では全て義久と記す)。天文23年(1554)、島津氏と蒲生氏・祁答院氏・入来院氏・菱刈氏などの薩摩・大隅国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。以後、国衆との戦いに従事しており、弘治3年(1557)には蒲生氏が降伏し、永禄12年(1569)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌元亀元年(1570)には東郷氏・入来院氏が降伏、ようやく薩摩統一がなった。この薩摩統一の途上であった永禄9年(1566年)、義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となっている。最後に残った日向国に関しては天正4年(1576)伊東氏の高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退の一途を辿る。こうして伊東義祐は豊後国の大友宗麟を頼って亡命し、三州統一という島津氏の悲願が達成された。伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が天正6年(1578)10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀(延岡市無鹿)に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周・佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟・島津家久を置いていたが、大友軍が日向に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠けていた。大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。無秩序に攻めてくる大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信や斎藤鎮実、軍師の角隈石宗など主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める肥後国から、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じてくる。天正9年(1581)には球磨の相良氏が降伏、これを帰順させている。耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘・家久に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は天正10年(1582)、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取った。これを機に、晴信は人質を差し出し、島津氏に服属した。翌年、有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊が龍造寺氏に背いた。島津軍は八代に待機していた新納忠堯・川上忠堅ら1000余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子、筑前国の秋月種実らが、次々と島津氏に服属や和睦していった。天正13年(1585)、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光を下した(阿蘇合戦)。これにより肥後国を完全に平定し、義弘を肥後守護代として支配を委ねた。この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられた(「惣無事令」)。島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視し、大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じた。天正14年(1586)7月、義久は八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取った。筑前へ島津忠長・伊集院忠棟を大将とした2万余が大友方の筑後国の筑紫広門を攻めた。島津軍の猛攻を受け、広門は秋月種実の仲介により開城し軍門に降った。これを見て、筑後の原田信種、星野鎮種、草野家清ら、肥前の龍造寺政家の3,000余騎、豊後の城井友綱と長野惟冬の3,000余騎など、大名・国衆が参陣した。天正15年(1587)、豊臣軍の先鋒・豊臣秀長率いる毛利・小早川・宇喜多軍など総勢10万余人が豊前国に到着し、日向国経由で進軍した。続いて、豊臣秀吉率いる10万余人が小倉に上陸し、肥後経由で薩摩国を目指して進軍した。豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘・家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下った。秀長軍は山田有信ら1,500余人が籠る高城を囲んだ。また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰してくる島津軍に備えた。島津軍は後詰として、義弘・家久など2万余人が根白坂に一斉に攻め寄せたが、島津軍は多くの犠牲を出し、本国へと敗走した。秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義弘の子・久保(義久には男児が無かったため、甥の久保に三女・亀寿を娶わせ後継者と定めていた)に日向国諸縣郡を宛行った。またこの際、伊集院忠棟には秀吉から直々に大隅のうちから肝付一郡が宛行われている。かつて九州の大半を支配していた島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵や高橋元種といった新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいては京都にいた義弘は西軍に加担することになる。この間、再三義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。戦後、西軍への荷担は義弘が行ったもので、義久はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始する。家康に謝罪するため忠恒が上洛しようとするが、義久は「上洛は忠孝に欠けた行い」と反対している[6]。 忠恒は義久や義久の家臣の反対を振り切って上洛した。義久は忠恒の上洛を追認し「病のために上洛できないため、代わりに忠恒が上洛する」と書状を送っている。結果的に島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下った。徳川家康による領土安堵後の慶長7年(1602)、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。この頃の体制を指して「三殿体制」とよぶ。慶長9年(1604)には大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築き、移り住んだ。しかし、娘・亀寿と忠恒の不仲などから関係は次第に悪化したと言われる。忠恒・亀寿夫妻の間には1人も子が無かったことから外孫の島津久信を家久の次の後継者に据えようとしたが失敗したとされる。また、義弘・忠恒親子が積極的に推進した琉球出兵にも反対していたとされる。慶長15年頃には「龍伯様(義久)、惟新様(義弘)、中納言様(忠恒)が疎遠になられ、召し使う侍も三方に別れ、世上に不穏な噂が流れて」いたという。慶長16年(1611)1月21日、国分城にて病死した。享年79。辞世は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」。
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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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