「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

『戦国時代の群像』78(全192回)「黒田 孝高」(1546~1604)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった

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『戦国時代の群像』78(全192回)「黒田 孝高」(1546~1604)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。諱(実名)は初め祐隆、孝隆、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村の出身とされるが、定かではない。 孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、龍野城主・赤松政秀、後に守護・赤松晴政重臣で御着城(現在の姫路市東部)を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺則職・政職父子に仕えた。小寺氏は黒田氏を高く評価し、天文14年(1545)に重隆を姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせた。天文15年11月29日(1546)、孝高は黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれた。幼名は万吉。永禄2年(1559)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる[3]。永禄4年(1561)、小寺政職の近習となる。そして永禄5年(1562)、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る[3]。この年から「小寺官兵衛」を名乗っている。永禄7年(1564)、室津の浦上清宗が、婚礼当日に敵対する赤松政秀に攻められ、父・政宗とともに討たれる事件があったが、清宗の妻を孝高の姉妹と見る向きもある。永禄10年(1567)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。また、従兄弟の明石則実との同盟を結ぶ。天正3年(1575)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言。7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀「圧切長谷部」を授かる。さらに年明けには政職にも、赤松広秀、別所長治らと揃って京で謁見させる。一方で9月には、浦上宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。天正4年(1576)1月、丹波国の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃(黒井城の戦い)して信長より離反。4月、信長と本願寺の和睦が決裂。7月、輝元の叔父・小早川隆景配下の水軍の将・浦宗勝が、信長の水軍を破る(第一次木津川口の戦い)。天正5年(1577)5月、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟し、浦宗勝を通秋の所領である英賀に上陸させた。孝高は500の兵で逆に奇襲をし、5,000の兵を退ける(英賀合戦)。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。10月、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡の国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。月末には秀吉は、弟の羽柴秀長を但馬国の生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城攻めに向かわせる(11月4日落城)。孝高は秀吉本隊の上月城攻めに従い、佐用城攻めでは竹中重治らと共に先陣を務めている。織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている。 秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言して謝絶する。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる。9月、孝高は揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられる。高松城攻めの最中の6月2日、京都で明智光秀により本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたという逸話がある。 山崎の戦いでは天王山に布陣し、裾野の中川清秀隊を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。9月頃より、毛利氏・宇喜多氏の国境線確定交渉を行い、蜂須賀正勝ととも毛利側の安国寺恵瓊と交渉した。天正11年(1583)、大坂城の縄張りに当たる。秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの当初においては、大坂城で留守居役を務めている。黒田長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。中入りの時期には、蜂須賀正勝らとともに本営の備えとして召喚され、小牧山包囲からの撤退戦となった5月1日の織田信雄・徳川家康連合軍との二重堀砦の戦いで、木村重茲らと殿軍を務めている。7月、二重堀砦の戦いの最中の無断離脱を問われ改易された神子田正治の山崎城を含む播磨国宍粟郡を与えられ5万石の大名となっている。慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。慶長5年(1600)6月2日、家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女・栄姫と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。7月17日、石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前もって味方として中津城の留守居を務める密約を結び、行動した。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後国に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請。同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。道中の諸城を攻略した後、9月13日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した(石垣原の戦い)。関ヶ原の合戦の後、徳川家康は長政に勲功として筑前国名島(福岡)52万3,000石への加増移封をした後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示するが如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、中興の祖と言われ再建に努めた太宰府天満宮内に草庵などを構えている。 また、上方と筑前を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津国有馬温泉に、療養滞在している。4月のある夜、午後10時半頃、博多の教会の宣教師たちは如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそった。如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ、直之の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200も入るほどの大きなもので、その中に着いたのち宣教師たちは儀式を行い、それから如水を埋葬した。同じ夜、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀もおこなっている。如水の死から2年後、如水の追悼記念聖堂が完成し、慶長11年3月21日(1606)からその翌日にかけて宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは聖堂の献堂式に始まり、2日目には如水の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後、長政は宣教師たちを福岡城に招いて宴を設け、如水の妻・照福院(光)は教会のための特別な寄付をしたという。後に長政は京都の臨済宗大徳寺に、父・如水を弔う為に塔頭・龍光院を建立。法要が行われた。同院は当初、大徳寺最大の塔頭で如水の霊廟の他、大阪天満の如水屋敷にあった書院、茶室等を移築。これが今日まで残る天下の三大茶室の一つで国宝の密庵である。また、如水の晩年の伝承に基づいた墓碑が各地に残存し、近年盛んに研究されている。明治35年(1902)11月13日 、従三位を追贈された。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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