『歴史の時々変遷』(全361回)151”吉田郡山城の戦い“ 「吉田郡山城の戦い」天文9年(1540)から天文10年(1541)まで安芸国吉田の吉田郡山城(

『歴史の時々変遷』(全361回)151”吉田郡山城の戦い“
「吉田郡山城の戦い」天文9年(1540)から天文10年(1541)まで安芸国吉田の吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、大内氏に従属していた毛利氏当主・毛利元就と尼子詮久(後の尼子晴久)との戦い。実際は城外での戦闘が主で、いわゆる籠城戦ではなかったため、郡山合戦とも呼ばれる。安芸国の吉田を治める国人領主であった毛利氏は、周防の大内氏に長年服属していたが、出雲の尼子氏が勢力を拡大して安芸に伸張してくると、二大勢力の狭間で巧みな外交を続けていた。大永4年(1524)の佐東銀山城の戦いでは尼子方として戦った毛利氏であったが、かつて元就の家督継承問題に尼子経久が介入してきたことなどから、尼子氏に対する不信は少なくなく、翌5年(1525)には大内氏の元に帰参した。とは言え、勢力維持のために大内・尼子の間での絶妙なバランスを保ち続けており、享禄3年(1530)に発生した尼子氏の内紛(塩冶興久の乱)の影響で一時的に尼子氏と大内氏の間に和睦が成立すると、元就も享禄4年(1531)に尼子詮久と義兄弟の契りを結んでいた。従来の説によれば、天文9年(1540)6月下旬に、新宮党の尼子久幸・尼子国久・尼子誠久らが率いる3,000騎が、偵察を兼ねて備後路から安芸吉田への侵入を図ったとされる。軍勢は月山富田城から出陣し、出雲赤名から備後三次を経て、尼子方の三吉隆信の居城・備後八幡山城(三次市)に進出した。ここより毛利血縁である宍戸氏の祝屋城・五龍城(安芸高田市)を落とし、吉田郡山城の背後に迫る予定であった。しかし宍戸氏は宍戸元源や宍戸隆家、深瀬隆兼らが、犬飼平や石見堂の渡しで決死の防戦を行い、尼子軍は可愛川(江の川)すら渡る事ができず、この方面での侵攻を諦めて撤退した。この戦いは「犬飼平の合戦」と呼ばれるが、これらは江戸時代になってから書き記された『陰徳太平記』の記述によるところが大きく、(その記述に近い出来事があった可能性は否定できないが)信頼性の高い史料や感状などによる裏付けができないために虚構であるとの説が有力である。天文9年8月10日、尼子詮久は出雲・石見・伯耆・因幡・備前・備中・備後・美作・安芸の兵30,000を率いて月山富田城を出陣した。今回は石見路を通り、赤名から口羽・川根・河井を経由し、9月4日には吉田郡山城の北西4kmに位置する風越山に本陣を敷き、湯原宗綱3,000余を左翼、高尾久友・黒正久澄・吉川興経を右翼に配置、側部・背部にも守備兵を置いて警戒を厳にした。これに対して元就は、一族郎党を引き連れて吉田郡山城に籠城。城には精鋭2,400人と農民・商人・女子供らを加えて合計8,000人程度が入り、尼子氏の攻撃に備えた。これらは軍記物の記述によるため真偽は不明であるが、兵士達と共に村人らも戦っている記録が残っていることから、尼子軍に抵抗するために村人らも総出で山に籠もっていたと考えられている。さらに、吉田郡山城には宍戸隆家と天野興定が入城し、宍戸元源と福原広俊もそれぞれ五龍城と鈴尾城(安芸高田市)で籠城。頭崎城攻めを行っていた大内家臣の杉隆相も、小早川興景らを率いて坂城(安芸高田市)に駐留して急に備えるなど、吉田郡山城の支援態勢を整えた。
★尼子氏・吉田郡山城攻めに失敗したことで、同年1月末までに頭崎城の平賀興貞も降伏。後述の通り安芸武田氏や厳島神主家などの安芸における尼子方勢力も駆逐される。安芸・備後・石見のみならず出雲でも国人領主たちの多くが離反、備前・播磨では赤松氏や浦上氏が勢力を盛り返すなど、膠着状態であった中国地方の勢力争いは大きく動いた。そして、11月13日には尼子経久が病没。この機に乗じて尼子氏を叩こうとした大内義隆により、室町幕府から尼子討伐の綸旨も出されるなど、尼子氏は窮地に追い込まれた。
★大内氏・吉田郡山城救援に成功した大内軍は、続けて桜尾城や佐東銀山城など周辺の反大内勢力を毛利氏と共に制圧。義隆が安芸守護に任じられたため、弘中隆包を安芸守護代に任じて厳島を含む安芸の支配体制を強化している。尼子氏と大内氏の立場が逆転したこの戦いにより、大内方に鞍替えした主要な国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が提出される。これを受け、陶隆房らの主導により、天文11年(1542)大内義隆は出雲へ遠征する(第1次月山富田城の戦い)。
★毛利氏・合戦後、大内氏に従って安芸分郡守護の家柄であった安芸武田氏を滅ぼし(佐東銀山城の戦い)、安芸国での優位を確立。また、吉田郡山城の戦いについて『毛利元就郡山籠城日記』で室町幕府に報告し、管領の細川晴元や六角定頼・赤松晴政などから賞賛を受けており、名実共に戦国大名として雄飛する第一歩となった。
★安芸武田氏・武田信実は、尼子軍の退却と同時に、牛尾幸清らと共に出雲に逃亡した。居城である佐東銀山城には、一族である武田信重が300余りの手勢で立て籠もるが、まもなく元就によって攻め滅ぼされた。安芸武田氏の一族には、光和の庶子である武田小三郎(後の武田宗慶)が生き残って、後に毛利氏に仕えている。安芸武田氏を復興させることはなかったが、毛利氏の周防移封後に、周防武田氏を興している。
★厳島神主家・家督争いの続いていた厳島神社の厳島神主家では、大内氏により隠居させられていた神主家一族の友田興藤が、吉田郡山城の戦いに乗じて天文10年1月12日に桜尾城や厳島を占領。しかし、その翌日に尼子軍が総退却し、3月には興藤の籠もる桜尾城が大内氏の大軍に包囲される。4月に興藤は城内で自害、興藤の弟で厳島神主家の当主藤原広就も五日市城で自害し、実質的にこれで厳島神主家は滅亡した。興藤自害後は、大内家臣・杉氏一族の杉隆真が佐伯景教と名乗って新たな当主となった。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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