スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『戦国時代の群像』77(全192回) 「金森 長近」(1524~1608)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将

金森1
『戦国時代の群像』77(全192回)
「金森 長近」(1524~1608)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。名ははじめ可近(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗った。通称は五郎八。法印素玄。飛騨高山藩初代藩主。金森氏は、美濃源氏土岐氏の支流と称する。応仁の乱にて西軍として活躍した美濃守護・土岐成頼の次男である大畑定頼の次男・定近が一族を連れて美濃を離れて、寺内町として著名な近江国野洲郡金森(現在の滋賀県守山市金森)に居住し、「金森采女」を称したことに始まる。大永4年(1524)、金森定近の次男として美濃多治見に生まれる。兄弟に落語の祖と呼ばれ『醒睡笑』を編した安楽庵策伝などがいる。父・定近は土岐氏の後継者争いで土岐頼武を支持したが、頼武は土岐頼芸に敗れて失脚し、定近も程なくして美濃を離れ近江野洲郡金森へと移住した。天文10年(1541)まで近江で過ごしたという。18歳になると近江を離れて尾張国の織田信秀に仕官し、跡を継いだ信長にもそのまま仕えた。美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として抜擢。長篠の戦いでの鳶ヶ巣山砦攻略、対越前一向一揆戦などで戦功を重ね、天正3年(1575)、越前国大野郡に所領を与えられた。その後は信長配下の柴田勝家の軍団に属した。天正10年(1582)、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれ(この際、嫡男・長則は織田信忠と共に討死したため、長屋景重より可重を養子にとった)、勝家と羽柴秀吉が対立すると、柴田側に与したが、天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れて自刃すると、剃髪して降伏。臨済宗大徳寺の山内に旧主・織田信長を弔うため金龍院という塔頭を建立した。その後は小牧・長久手の戦い、富山の役、飛騨国の姉小路頼綱討伐などで功績を挙げ、天正13年(1585)に飛騨一国(3万8,700石『寛政重修諸家譜』)を与えられた。禅宗と茶道に造詣が深く文禄3年(1594)頃には秀吉の御伽衆を務めたという。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは養子・可重とともに東軍に与し、戦後、飛騨に加え美濃郡上八幡城攻めなどの功を賞されて2万石を加増、徳川家康より飛騨守に推挙され初代高山藩主となる。慶長10年(1605)、小倉山城を築く。城下町はうだつの上がる町並みとして現存し、重要伝統的建造物群保存地区となっている。慶長13年(1608)、京都伏見にて死去。享年85。



スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。