『戦国時代の群像』69(全192回)「真田 昌幸」前編・「真田 昌幸」(1547~1611)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。甲斐の武田信玄の家臣

真田1『戦国時代の群像』69(全192回)「真田 昌幸」前編・「真田 昌幸」(1547~1611)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名甲斐武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏徳川氏上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。軍記物講談小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られている。子に真田信之上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。天文16年(1547)、真田幸隆(幸綱)の三男として生まれる。生誕月日は不明。幼名は源五郎。一説に天文14年(1545)生まれとする説もある。ただしこちらの説は後世に作られた系図注記や編纂書によるものであり、余り信頼性はないとされる。昌幸は三男であり、同母兄に信綱・昌輝がいたため、生まれた時点で真田家の家督相続の権利は無かった。天文22年(15538月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている。なお、武藤家は武藤三郎左衛門尉の時に実子の武藤与次が早世したため、昌幸を養子にとったとされている[7]。永禄7年(1564)頃に、山手殿(山之手殿、信幸、信繁らの母)を妻に迎えている。山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされているが、菊亭晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説がある。初陣は『軍鑑』によれば、永禄4年(15619月の第四次川中島の戦いと言われ、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの傍証は無い。ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定はできない。永禄9年(1566)春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めた。永禄10年(156711月に武田勝頼の嫡男・信勝が生まれた際には山県昌景馬場信春内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)と共に信玄の使者として高遠城の勝頼の下に出向いた。昌幸以外の顔ぶれはいずれも武田家の譜代宿老・重臣クラスであり、この頃の昌幸は武藤家を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られている。ただし出典が『軍鑑』のみで傍証が無いのも事実である。永禄12年(1569106日、北条氏康氏政氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた。『軍鑑』によれば北条軍との戦いで一番槍の高名を挙げたとされている。信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を見抜いていた。『軍鑑』によれば、元亀元年(1570)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍を率いて箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張した。これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えた。諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかと訝しんでいると、まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、その両名が両眼であることがわかった。この話に出てくる昌世がそうであるように、昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。元亀3年(157210月から信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている。『軍鑑』によれば、昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」を率いて出陣したとされている。当時の昌幸の所領の場所や規模は明らかではないが、武田家の親族衆である信玄の弟・武田信実が昌幸とほぼ同じ規模の兵を保有しており、信実は397貫文を知行としていたため、昌幸も同等かそれより上くらいと推測されている。なお、この頃には養父の武藤三郎左衛門尉は戦死していたとされており、昌幸がその遺領を継いでいたと見られている。元亀4年(15734月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。天正2年(1574)には父・幸隆が死去する。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575521日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続した。これには武田家の重臣で川中島海津城主であった高坂昌信の支援があったとされ、勝頼も昌幸の復姓と家督相続を認めたとされる。なお、昌幸も長篠合戦には参加していたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていた。真田氏の本拠の展開は戸石城を中心とした一帯を掌握したことを第一の画期としており、居館を核としてはいるが、山城(詰の城)・寺院・市町などはいずれも多元的で家臣の集住はほとんど見られないことから、昌幸の支配領域では兵農未分離のまま、在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており、上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を展開していくことになる。天正9年(1581)には、勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達している。新府城築城に関しては昌幸は作事奉行であったとする説もあるが、昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているに過ぎず、作事奉行であったとする見方を慎重視する説もある。同年、元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、昌幸は家臣の金子泰清に命じて景義を討ち取った。天正10年(15823月、織田信長徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われた。なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。このような武田家への忠誠を示す逸話が知られるが、一方で武田滅亡以前から北条氏直との接触を示す史料もある。織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(158262日に本能寺の変で信長が横死する。甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、森長可毛利秀頼道家正栄ら信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)。昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった。しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは612日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。昌幸はこの会合には参加していないが、会合の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。そして彼らの代表者が岩櫃城にいた昌幸の下を訪れ、昌幸は快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。この2日前の610日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。612日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀30貫文、616日には吾妻郡の豪族・鎌原重春1000貫文、621日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。同時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、624日に長沼城に入った。これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従したが、79日には北条氏直に降った。712日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している。一方、上杉景勝は89日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。沼田城に戻った昌幸は925日、佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る。1019日に禰津昌綱を攻めたのを手始めに、信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行うが、信蕃と組むのは北条氏を裏切った証として家康から求められていたものであった。昌幸離反の情報は、10月初旬に北条氏に伝わったとみられる。藤田氏邦は昌幸をけん制するため沼田城を攻めるが、成功しなかった。これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は1029日に和睦の途を選択する。しかし、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴ブロックへの参加に他ならない。この時、厩橋城北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。天正11年(1583)、昌幸は上杉氏に対する千曲川領域を抑える城が必要になり、徳川家康の命で川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、その周囲に当時流行の城下町も築いた。また、同時期には北条氏と通じていた禰津昌綱、屋代勝永室賀満俊らを調略し、丸子氏を滅ぼしている。これら一連の活動は徳川家の家臣として行なっているが、昌幸は家康との和睦条件の齟齬から独立を策していたとされている。家康は12月に羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵する。そして北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため、天正13年(15854月、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めた。しかし昌幸は相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに応じないと拒否。家康は浜松城に引き返した。昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えて715日に次男の信繁を人質にして上杉景勝に従属する。閏8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠大久保忠世平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させた。昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている(第一次上田合戦)。結城晴朝のもとに上田の戦勝の知らせが届いた時にはその数字は2千人に膨れ上がり、晴朝は「誠に心地好き次第」として喜んだ。この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも2度以上あったとされる。一方、家康は上田の敗戦を受けて、北条氏との同盟強化に乗り出さなければならなかった。また、氏直は沼田攻めを手掛けるも、落とせなかった。天正13年(1585)冬、次男の信繁が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従した。天正14年(1586)には佐久に侵攻する。525日には北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退した。7月には家康が昌幸征伐のために甲府に出陣する。しかし87日に秀吉の調停を受けて真田攻めを中止。その代わりに114日、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となった。天正15年(15872月に上洛。318日に昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見し、その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となった。 なお、真田氏は上杉氏を介して豊臣大名化を遂げたのではなく、上杉氏には真田氏を豊臣大名化させる意志はなかったため、昌幸が独力で交渉窓口を切り開いた。有力な取次と関係を構築できなかったので、豊臣大名化が遅れた。小田原征伐に際しては、天正18年(159018日に秀吉から3か条の条目を与えられている。3月上旬には上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り、北条家重臣の大道寺政繁が守る松井田城を攻めた。この小田原征伐の間、昌幸は秀吉・石田三成らと相互に情報交換を繰り返しており、松井田城包囲中に三成宛に「上野国中に悉く放火仕る」と報告している。松井田城攻略後は上野における北条家の属城を次々と落とし、429日付の秀吉の昌幸宛書状では北条属城の攻略を受けてその仕置を命じられて、武器・兵糧・弾薬の没収を務めている。以後、北陸軍は上野・武蔵など関東北部の北条属城を落としながら南下する。石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされている。北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担った。昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担った。昌幸は秀吉から家康の与力大名とされていたが、沼田問題で昌幸の在京期間が長期に及んで秀吉の信任を得る事になり、正式に豊臣系大名として取り立てられていた可能性が指摘されているが、それを示す直接的史料は無い。なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立した。大坂に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられた。そのため昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担したが、この間に豊臣秀頼が生まれたため、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられて普請に当たっている。昌幸は普請役では知行高の5分の1の人数負担が割りふられており、その人数は270人を数えている。ただし扶持米は豊臣家から支給された。また、築城工事の最終段階で木曽材の運搬役を秀吉から命じられている。この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594112日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。なお、信繁はこの頃になると昌幸の後継者としての地位を固めつつあった。慶長2年(159710月、秀吉の命令で下野宇都宮城主の宇都宮国綱改易されると、その所領没収の処理を浅野長政と共に担当した。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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