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『戦国時代の群像』66(全192回) 「柴田 勝家」(?~1583)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。大永2年(1522年)、

勝家2『戦国時代の群像』66(全192回)

「柴田 勝家」(?~1583)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名である。大永2年(1522)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる。生年には大永6年(1526)説や大永7年(1527)説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。若いころから織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが織田信長の家督継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。天文21年(1552)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、織田信長の排除を試みたが、弘治2年(15568月に信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。この時は信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前と礼を述べた。以後は信長を認め、稲生の敗戦後、信行が新参の津々木蔵人を重用したこともあって、見限った。弘治3年(1557)に信行が謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、信長は仮病を装い信行は112日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害された[4]。信行の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。信行の死後、罪を許され、信長の家臣となった。しかし、信行に与して信長に逆らったことが響いたのか信長の尾張統一戦や、桶狭間の戦い美濃斎藤氏攻めでは用いられなかった]永禄11年(1568)の上洛作戦になって再度重用され、畿内平定戦などでは常に織田軍の4人の先鋒の武将として参加し(勝竜寺城の戦いなど)、信長の重臣として武功を挙げた。11月までは先方武将4人が京都の軍政を担当したが、幕府奉公衆に任せ、信長とともに岐阜に引き上げる。永禄12年(15691月、三好三人衆による本圀寺の変の際に信長と共に再度来京し、4月上旬まで京都・畿内行政に担当5人の内としてあたった。同年8月、南伊勢5郡を支配する北畠氏との戦に参加する。同年8月から9月の野田城・福島城の戦いで三好三人衆が四国から攻め上り総軍で対峙する中、石山本願寺が突如敵対し、混戦となる。その後半に、朝倉・浅井連合軍が3万の大軍で山科、醍醐を焼きつつ京都将軍御所を目指して進軍した。『言継卿記』によると、勝家と明智光秀が守備のため京都へ戻されたが、勝家が事態を重大視して信長に進言し、23日に総軍で野田・福島から退却し強行軍で同日夜半に京都に戻り、志賀の陣となる。12月、信長は足利義昭に依頼し、朝廷が仲介する形で浅井・朝倉との和睦に持ち込む。天正元年(1573)8月の一乗谷城の戦いは、信長軍総動員となり朝倉氏を滅ぼした。勝家は、その後の北近江の小谷城の戦いにも参加したが、その際の先鋒は羽柴秀吉が務めた。同年9月に、2度目の長島攻めに参加している。長島の西方の呼応する敵城を勝家も参戦し桑名の西別所城、酒井城を落とす。長島は大湊の船が十分確保できず退却する。2年前の勝家負傷と同所で殿の林通政隊が一揆勢に襲われ林と多数が戦死する。天正2年(1574)に多聞山城の留守番役に細川藤孝に続き39日から勝家が入る[9]。同年7月、3度目の最終戦の長島攻めに参軍し総員7万の大軍で兵糧攻めで助命を約束に開城したところをだまし討ちで殲滅する。三手の内の賀鳥口(右翼)を佐久間信盛と共に指揮した。天正3年(1575)には高屋城の戦い長篠の戦いにも参加する。天正4年(1576)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家佐々成政不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。なお、従前の領地の近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されている[12]。天正8年(15803月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。一向一揆を制圧して、天正8年(158011月、ついに加賀を制定する。さらにその勢いのまま能登国越中国にも進出を果たす。また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。翌天正9年(1581228日、信長の京都御馬揃えでは与力の前田利家ら越前衆を率いて上洛し、参加した。また、この頃から対上杉政策の為か、伊達氏の家臣・遠藤基信と連絡を盛んに取り、伊達氏との外交政策の一端を担っている。天正10年(15823月から上杉氏方の越中国の魚津城松倉城富山県魚津市)を攻囲していた。本能寺の変があって信長が横死するが、これを知らぬまま63日に魚津城は陥落した(魚津城の戦い[14]。事件を知り6日の夜からただちに全軍撤退して北ノ庄城へ戻るが、上杉側が変を知り、失地回復に越中・能登の国衆を煽り動けず、やっと18日に近江に出動するが、すでに中国大返しを行った秀吉の軍が光秀を討っていた。本能寺の変後の清州会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推したが、明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった秀吉が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなり、信長の遺領配分においても河内丹波山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得たが、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった。清州会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、信雄が尾張、伊賀、南伊勢、信孝が美濃を領有し、これを秀吉、勝家、丹羽長秀池田恒興4重臣が補佐する体制となった。また、この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚している。従来は信孝の仲介とされて来たが、勝家の書状で「秀吉と申し合わせ主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とあり、勝家のお市への意向を汲んで、清州会議の沙汰への勝家の不満の抑えもあり秀吉が動いたと指摘されている[16]。清洲会議終了後、勢力を増した秀吉と勝家など他の織田家重臣との権力抗争が始まる。勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗する。だが秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を圧迫したうえ懐柔した。次には岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させる。天正11年(1583)正月に秀吉は滝川一益の北伊勢を7万の大軍で攻めるが一益は3月まで対峙する。天正11年(1583312日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙する(賤ヶ岳の戦い)。事前に勝家は、毛利に庇護されている足利義昭に戦況を説明し毛利軍とともに出兵を促す書状を毛利を介して出し背後を突かせようとするが、義昭では既に時代に合わずうまくいかなかった。同様の働きかけは3月頃に高野山にもしており、各地にしたようだが実を結ばなかった。416日、秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵し、秀吉は岐阜へ向かい勝家は賤ヶ岳の大岩山砦への攻撃を始めるが、美濃大返しを敢行した秀吉に敗れ、424日に北ノ庄城にてお市とともに自害した。享年62

 

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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