『戦国時代の群像』65(全192回)「明智 光秀」(?~1582)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名

明智3『戦国時代の群像』65(全192回)「明智 光秀」(?~1582)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名戦国大名織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして信長を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉山崎の戦いで敗れた。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも[6]致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。本姓源氏で、家系清和源氏摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。のちに朝廷より惟任の姓を賜ったため惟任光秀とも言う。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。清和源氏土岐氏の支流明智氏に生まれ、父は江戸時代の諸系図等で明智光綱明智光国明智光隆明智頼明などに分かれるが、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われる[8]土岐氏建武の新政から美濃国200年余り守護を務め数十家の支族を輩出した。生年は『明智軍記』『細川家文書』からは享禄元年(1528)とされる。場所は岐阜県可児市明智の明智城が有力とされる[注釈 5]。元亀元年(1570428日、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正3,000を主力に、秀吉と共に殿を務め防戦に成功する。430日には丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り城館を破壊して56日帰京する。またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(東寺百合文書)。同年9月の志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した。元亀4年(15732月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する。同年7月にまたも義昭が槇島城で挙兵し光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えたものも多い。同年、坂本城が完成し居城とした。天正元年(15737月に村井貞勝京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している。朝倉氏滅亡後の8月から9月まで秀吉と滝川一益と共に越前の占領行政を担当し、9月末から溝尾茂朝三沢秀次)、木下祐久津田元嘉が代官として引き継いだ。 天正3年(1575)に、惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官し、惟任日向守となる。城主となった光秀は、天正3年(1575)の高屋城の戦い長篠の戦い[29]越前一向一揆殲滅戦に参加する。そして丹波国攻略を任される。丹波国は山続きでその間に国人が割拠して極めて治めにくい地域であり、同国人は親義昭派で以前は信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた。まず黒井城を包囲するが、八上城主・波多野秀治が裏切り、不意を突かれて敗走する。天正4年(15764月、石山本願寺との天王寺の戦いに出動するが、55日に逆襲を受け司令官の塙直政が戦死する。光秀も、天王寺砦を攻めかかられ危ういところを信長が来援し助かる。だが23日に過労で重病となり生死をさまようが7月には回復する。しかし117日には、正室の煕子が坂本城で病死する[31]。天正7年(1579)、丹波攻めは最終段階に入り、2月には包囲を続けていた八上城が落城。89日、黒井城を落とし、ついに丹波を平定した。すぐ細川藤孝と協力して丹後国も平定した。信長は感状を出し褒め称え、この功績で、天正8年(1580)に丹波一国(約29万石)を加増され計34万石を領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政の支配地の南山城を与えられる。亀山城・周山城を築城し、横山城を修築して、福智山城に改名した。黒井城の増築をして家老の斎藤利三を入れ、福智山城には明智秀満を入れた。同年の佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と信長は光秀を絶賛した。天正10年(15825月、徳川家康饗応役だった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月26月21)早朝に出陣するが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害した。しかし、信長の死体は発見できなかった。その後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠を、応援に駆け付けた村井貞勝と息子の村井貞成村井清次や信長の馬廻りたちと共に討ち取った。また津田信澄(信長の弟・織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたため、加担との疑いで大坂で神戸信孝らに討たれた。光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて甲賀郡に退転したため仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り64日までに近江をほぼ平定し、65日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えたりした。67日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持をまかせている。京都市内が騒動し混乱を憂いての事と思われるが、この時に兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と謀反としている[38]。光秀はこの後、68日に安土を発って9日に昇殿して朝廷に銀500枚や、五山大徳寺に銀各100枚、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた[40]。本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の6月13天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、羽柴軍27千(池田恒興4,000中川清秀2,500、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆8,000。但し4万の説もあり)に対し明智軍17千(16千から18千の説もあり、さらに1万余りの説もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。同日深夜、坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負った光秀は自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという。 光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、624日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた(兼見卿記)『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀が十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されて最期と悟った光秀は首を守護を表す毛氈鞍覆に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという。安土城で留守を守っていた明智秀満は、14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが多くが逃亡し籠城戦も無理だと判断して、光秀と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した。また、光秀の首は丹波亀山の谷性寺まで持ち帰られたともいわれ、谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、光秀のものとして首実検に供された首級は3つあったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。

 

 

 

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