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『戦国時代の群像』64(全192回) 「長宗我部 元親」(1539~1599)ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。

 長曽24『戦国時代の群像』64(全192回) 

「長宗我部 元親」(1539~1599)ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国戦国大名長宗我部氏21当主位階従五位下で死後に正五位[3]、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波讃岐三好氏伊予西園寺氏河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。天文8年(1539)、岡豊城で生まれる。永禄3年(15605月、父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて実弟の親貞と共に初陣する。遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。この一戦で元親の武名は高まり、長浜戦に続く潮江城の戦いでも戦果を挙げた。6月、父の国親が急死すると、家督を相続する[注 4]。元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行う。長浜戦で敗れた本山茂辰は元親の攻撃に押される一方となり、永禄3年末の段階で現在の高知市における西南部の一端を除いて元親は悉くを支配下に置いた。永禄4年(15613月には本山方の神田・石立を落として茂辰を朝倉城と吉良城に追い込む。土佐国司で幡多郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名の一条氏と共同し、永禄5年(1562916日に朝倉城攻めを行う。このときは茂辰の子で元親の甥に当たる本山親茂の奮戦で敗北した。918日には鴨部の宮前で両軍が決戦するも痛み分けに終わる。だが勢力圏の縮小から茂辰を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ、永禄6年(15631月に茂辰は朝倉城を放棄して本山城に籠もった。この年、美濃斎藤氏から正室を迎え、長弟の親貞に吉良氏を継がせている。また、次弟の親泰は国親の生前に香宗我部氏を継いでおり、土佐東部の安芸郡を支配する安芸国虎とも戦った。本山方は5月に頽勢挽回を図って岡豊城を攻撃を企てるも失敗。永禄7年(156447日には本山を放棄して瓜生野城に籠もって徹底抗戦する。だがこの最中に茂辰が病死。跡を継いだ親茂も抗戦するも遂に敗れて、永禄11年(1568)冬に降伏した。こうして土佐中部を完全に平定した。元親は永禄10年(1567)の毛利氏の伊予出兵によって勢力を激減させた一条兼定からの自立を目論み、河野氏の武将・村上吉継へ独自に戦勝祝いを送るなど独立性を強めていった。永禄12年(1569)には八流の戦いで安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。元亀2年(1571)、一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込む。天正2年(15742月には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。こうして元親は土佐国をほぼ制圧した。天正3年(1575)に兼定が伊予南部の諸将を率い再起を図って土佐国に攻め込んできたときは、一時窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦いでこれを撃破し、土佐国を完全に統一した。土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国阿波国讃岐国へ侵攻していく。阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退していたが、十河存保三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗や、天正4年(1576)の吉良親貞の早世などもあって、当初は思うように攻略が進まなかった。しかし天正5年(1577)に三好長治が戦死するなど、三好氏の凋落が顕著になる。天正6年(15782月、元親は阿波白地城を攻め、大西覚養を討った。また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込んだ。阿波国では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が激しく抵抗するが、元親は天正7年(1579)夏に重清城を奪って十河軍に大勝した。康俊に対しても岩倉城に追い詰めて実子を人質にとって降伏させた。この年には讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年(1580)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。伊予方面においては、南予地方では軍代であった久武親信が天正7年(1579)春に岡本城攻めで土居清良の前に戦死するなどした。しかし東予地方では白地から圧力と誘いをかけて金子元宅妻鳥友春石川勝重らを味方にして平定。中予地方を支配していた伊予守護の河野氏毛利氏の援助を得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定は長期化することになった。天正8年(1580)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る。 元親は信長の要求を拒絶する[。このため信長と敵対関係になり、天正9年(15813月には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。天正10年(15825月には、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。このため三好氏旧臣らは元親を見限って康長に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とされた。 元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表している。四国攻撃軍は62日に渡海の予定であったが、その日に本能寺の変が起こって信長が明智光秀に殺された[。 信長の死で信孝軍は解体して撤退したので、元親は危機を脱した。元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を8月に中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置いた(第一次十河城の戦い)。9月には勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定する。10月には存保が逃れた虎丸城や十河城を攻めた。伊予国の平定は予想以上に手間取った。天正123月、毛利氏は宍戸元孝を河野氏救援のために派遣し、恵良で長宗我部軍と衝突する。4月には高山で、5月から6月にかけては恵良・菊間(菊万)で合戦を行っている。 8月には小早川氏の将である杉就良によって現在の新居浜市を落とされた。しかし元親は東予の金子元宅との同盟をさらに強固にして9月から反攻に転じた。しかし渡海して遠征していた毛利軍は次第に劣勢になり、12月には遂に河野氏は元親に降伏した。その後、天正13年(1585)春までに西予の豪族なども降伏させた。天正14年(1586)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かう。しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した。 元親は信親の死を知って自害しようとしたが家臣の諌めで伊予国の日振島に落ち延びた。天正16年(1588)、本拠地を大高坂城へ移転する。 その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定する。 その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興吉良親実などを粛清し、盛親への家督相続を強行している。天正17年(1589)ころに、羽柴の名字を与えられている。天正18年(1590)の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて参加し、後北条氏下田城を攻め、さらに小田原城包囲に参加した。天正19年(15911月、浦戸湾に迷い込んだ体長9を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。年末頃には本拠を浦戸城へ移転する。通説では洪水の多い大高坂城を元親が嫌ったからとされているが、近年では浦戸城は朝鮮出兵に備えた軍事拠点として築かれたもので[37][38]、将来的には大高坂城を本拠に戻すことを前提に引き続き整備が進められていたとする指摘もされている。また朝鮮出兵がなくとも行政機構整備は行われたとする指摘もある。文禄元年(1592)から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。豊臣政権は諸大名の石高に応じて軍役人数を課したが、長宗我部の軍役は3千人で固定され、水軍としての軍事力を期待されていた。慶長元年(1596)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年(15973月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。慶長3年(1598818日に秀吉が死去すると政情が不安定になる。元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、1126日に徳川家康の訪問を受けた。その後、年末か年明けに土佐に帰国した。慶長4年(15993月、三男の津野親忠を幽閉している。その直後から体調を崩しだした。4月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在。423日には豊臣秀頼に謁見している。だが5月に入って重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は510日に盛親に遺言を残して、519日に死去。享年61。高知県高知市長浜にある天甫寺に葬られる。

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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