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『歴史の時々変遷』(全361回)137“桂川原の戦い” 「桂川原の戦い」大永7年2月12日(1527)夜中から2月13日まで京都桂川

桂4 (2)『歴史の時変遷』(全361回)137“桂川原の戦い”

桂川原の戦い」大永72月121527)夜中から2月13まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなった。別名「桂川の戦い」とも言う。八上・神尾山両城の戦い、香西元盛管領細川高国の家臣だったが、同族の細川尹賢の讒訴を信じた高国によって自害させられた。高国はこれ以前にも讒訴を信じ、度々自身の家臣を自害させていた。これに対して良い感情を抱いていなかった香西元盛の2人の兄波多野稙通柳本賢治は十分な調べもないまま元盛が自害させられたことを知り、怒りを爆発させ丹波八上城神尾山城両城で反旗を翻した。驚いた高国は、大永6年(15261023日、神尾山城に総大将細川尹賢軍を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、それぞれの城を包囲した。その後小競り合いが続いていたが、波多野稙通に同情的であった丹波守護代内藤国貞115日に神尾寺城の包囲軍から離脱した。また1130日、黒井城主赤井五郎が3000の兵を率いて神尾寺城包囲軍の背後から襲い掛かり、赤井軍にも大きな損害がでたものの包囲軍を打ち破った。この敗報を知った八上城の包囲軍も翌121日囲みを解いて退却した。この退却の途中、阿波守護細川晴元と通じていた池田弾正は瓦林修理亮らに一斉に矢を射かけ、細川尹賢軍は散々な態で京へ逃散した。波多野稙通より知らせをうけた細川晴元は三好勝長三好政長に出陣を命じ、阿波よりに上陸、同年1213日に中嶋の堀城を占領し越年した。波多野軍も行動を開始、丹波を出国し翌大永7年(1527128日に野田城をわずか7日間で陥落させた。稙通はそのまま京都に向かうと見せかけて一気に南下し、24日に山崎城を陥れた。山崎城に詰めていた摂津守護代薬師寺国長高槻城に逃亡してしまった。その後、・芥川城太田城木城安威城福井城三宅城・の諸城を次々と攻め落としたり、降伏させたりした。211日波多野軍と三好軍は山崎城で合流、翌212日桂川を挟んで細川高国軍と対峙した。高国も諸大名に援軍を要請したが、要請に応じたのは若狭武田元光しかいなかった。細川高国軍は、主力として鳥羽から鷺の森辺まで川沿いに隙間無く一文字に陣をしき、本陣はそこから少し後方の六条に12将軍足利義晴自らが陣をしき、後詰の軍として本陣から北側、桂川の川勝寺に武田元光軍が陣をひいた。戦闘は212日夜中、川を挟んだ矢の応酬から始まった。翌213日、主力への攻撃を予想した細川高国軍に対して、三好軍は裏をかいて桂川を渡河、後詰の武田軍に襲い掛かった。かなりの激戦となったが、武田軍は死者80名を出し敗退した。これに危機感を覚えた高国は自ら武田軍に救援に向かったが、高国の親戚(父・政春の従兄弟)にあたる大納言日野内光は戦死してしまい、精鋭の荒木父子も戦死、

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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