「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

『戦国時代の群像』60(全192回) 龍造寺 隆信(1529~1584)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

竜造寺6『戦国時代の群像』60(全192回)

龍造寺 隆信(1529~1584)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥前戦国大名。仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。「五州二島の太守[5]」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。享禄2年(1529年)215日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男として肥前佐嘉水ヶ江城東館天神屋敷で生まれた。幼少期は宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。天文5年(1536)、7才のときに出家して寺僧となり、中納言房あるいは中将を称し、法名を円月(圓月)とした[7]。円月は、1213歳の頃より、20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったとされる[8]。まだ15歳の僧侶であった頃、宝琳院の同僚が付近の領民と諍いを起こし、院内へ逃げ込み門戸を閉ざしていた。これを領民67人がこじ開けようとしていたのを隆信が一人押さえていたが、力余って扉が外れ、領民45人がその下敷きになった。領民は恐れをなして逃げ帰ったという。天文14年(1545)、祖父龍造寺家純と父龍造寺周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺された。円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後蒲池氏の下へ脱出した。天文15年(1546)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その一年後に家兼は高齢と病のために死去した。家兼は円月の器量を見抜いて、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残した。それに従って翌年、円月は還俗して胤信を名乗り、水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぐことになった。しかし隆信が水ヶ江家の家督を相続するに及んでは一族・老臣らの意見は割れた。そこで八幡宮に詣でてを三度引き神意を問うたが、籤は三度とも隆信を選んだため、家督相続が決定したという。その後、大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功し、隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの、局地的な勝利に過ぎなかったので、この時点で大友氏の肥前支配を排除できなかった[22]。今山の戦い以降も、大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送って、また息子の政家が大友宗麟(義鎮)から偏諱(「鎮」の字)を賜って一時期「鎮賢」(しげとも)と名乗っている。隆信が周辺豪族を滅ぼす、従属させるたびに宗麟から詰問の使者が来ていたが、結局既得権として切り取った領土を認められ、耳川の戦いまでに確実に領土を広げ、力を蓄えていた。元亀3年(1572)、少弐政興を肥前から追放する。天正元年(1573)には西肥前を平定し、天正3年(1575)には東肥前を平定する。天正4年(1576)には南肥前に侵攻し、天正5年(1577)までに大村純忠を降し、天正6年(1578)には有馬義純の松岡城を降して肥前の統一を完成した[25]。天正8年(15804月に家督を嫡男の政家に譲って、自らは須古城隠居する。しかしなおも政治・軍事の実権は握り続けた。天正6年(1578)、大友宗麟が耳川の戦い島津義久に大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の領国を席捲し、大友氏からの完全な自立を果たし、それまで対等な関係であった国衆を服属化させ戦国大名化した。天正8年(1580)までに筑前筑後肥後、豊前などを勢力下に置くことに成功している。しかし天正8年(1580年)、島津と通謀した筑後の蒲池鎮漣を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、また天正11年(1583)に赤星統家が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた幼い赤星の息子を殺したため、隆信は麾下の諸将の一部からも冷酷なイメージで見られるようになる。天正9年(1581)、龍造寺軍は龍造寺政家(鎮賢)を主将として肥後へ侵攻、4月までに山鹿郡小代親伝菊池郡隈部親永大津山資冬戸原親運益城郡甲斐宗運合志郡合志親為飽田郡城親賢、隈府の赤星統家、球磨郡相良義陽が参陣した。また先陣の鍋島信昌は、隈府の赤星親隆山本郡古閑鎮房を下し、肥後計略は完了、龍造寺軍は帰陣した。龍造寺軍は25[註 5]の大軍であり、島津軍はわずか1万未満と圧倒的な兵力差であったが、龍造寺軍は大軍の進行が不可能な隘路に誘い込まれ、島津義久の弟島津家久軍と有馬勢から挟撃されて、敗北を喫した。龍造寺方は多くの将兵を失ったのみならず、大将の隆信が島津氏の家臣・川上忠堅に討ち取られてしまった。享年56歳。法名は泰巌宗龍、法雲院と号した。重臣の鍋島直茂は隆信の訃報に接し自害しようとしたが、家臣に押しとどめられ、柳河へと撤退した。島津軍に討ち取られた隆信の首級は、島津家久によって首実験された後、龍造寺家が首級の受け取りを拒否したため、願行寺玉名市)に葬られたと言われる。現在、隆信の公式の墓所は鍋島氏と同じ佐賀県高伝寺にあるが、戦いで討ち取られた首の行方には諸説あり(人物・逸話も参照)、「隆信の塚」と称する物が長崎県や佐賀県内に散在している。

 

 

 

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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