『歴史の時々変遷』(全361回)127“「応仁の乱」“東軍細川勝元・西軍山名宗全“ 「応仁の乱」“東軍細川勝元・西軍山名宗全“ 細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視

 応仁₈『歴史の時変遷』(全361回)127“「応仁の乱」“東軍細川勝元・西軍山名宗全“

「応仁の乱」“東軍細川勝元・西軍山名宗全“

細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。5月には勝元派である元播磨守護家の赤松政則が播磨へ侵攻し、山名氏から播磨を奪還した。また武田信賢細川成之らが若狭一色氏の領地へ侵攻し、義敏は越前へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も一色領国の伊勢を攻撃している。526日の夜明け前には室町亭の西隣にある一色義直の屋敷近郊の正実坊を成身院光宣が、実相院を武田信賢が占拠、続いて武田信賢・細川成之の軍が義直の屋敷を襲撃し、義直は直前に脱出、屋敷は焼き払われ京都での戦いが始まった(上京の戦い)。勝元は匿っていた政長を含む全国の同盟者に呼びかける一方、室町亭を押さえ戦火から保護するという名目で将軍らを確保、勝元は自邸今出川邸に本陣を置いた。室町亭を奪還した勝元らは西軍方に就いた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には政所執事代の伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された。片や宗全は5月20に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。西軍は管領斯波義廉の管領下知状により指令を行っていた[17]。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。京都に集結した諸将は北陸信越東海九州筑前豊後豊前が大半であった。地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、東軍が優位を占めていた。西軍は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していた。このため西軍には、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行きで参加したものも多く、その統率には不安が残されていた。一方、関東や東北九州南部などの地域は既に中央の統制から離れて各地域で有力武家間の大規模な紛争が発生しており、中央の大乱とは無関係に戦乱状態に突入していた。526日、宗全邸の南に位置する一条大宮の細川勝久邸を斯波義廉の配下の朝倉孝景、甲斐氏ら西軍が攻めかかり、応戦した細川軍と激戦を展開、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。続いて赤松政則が南下して正親町を通り、猪熊に攻め上がって斯波軍を引き上げさせ、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之の屋敷に逃亡した。西軍は勝久邸を焼き払い、続いて成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿、革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが、東軍の抵抗で決着が着かず翌27に両軍は引き上げた。この合戦で起きた火災で北は船岡山、南は二条通りまで延焼した。義政は28に両軍に和睦を命じ、勝元の軍事行動を非難しながら義就の河内下向を命ずる一方、伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど独自の動きを取っていた。しかし、6月3には勝元が義政に要請して将軍の牙旗が東軍に下され、東軍は官軍の体裁を整えた。義政は義視に西軍攻撃を命じ、6月8には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに義政の降伏勧告により斯波義廉は動揺して自邸に引きこもった。東軍は義廉の館も攻撃し、戦闘の巻き添えで南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。この頃は京都に軍勢を集めていた東軍が優勢であった。しかし6月14には大和古市胤栄が、19に紀伊の畠山政国などの西軍の援軍が到着し始めた。8月23には周防から大内政弘伊予河野通春7か国の軍勢一万と2千艘の水軍[21]を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。同日天皇・上皇が室町亭に避難し、室町亭の一郭が仮の内裏とされた。一方では義視が出奔し、北畠教具を頼って伊勢に逃亡した。またこの頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、9月1に義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた[22]9月18に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3に発生した相国寺の戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡に斯波義廉軍が陣取り、義就が山名宗全邸の西に移り東軍は劣勢に立たされた。朝廷においては10月3に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰を発したほか、12月512月31)に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠光忠父子・阿野季遠清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは冨子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。応仁2年(14683月17に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元小早川煕平が交戦、5月2に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8に勝元が宗全の陣を、8月1に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。管領の斯波義廉は西軍についていたものの、将軍・義政から直ちに解任されなかった。このため、将軍が主宰する御前沙汰など、幕府の政務も管領不在のまま行われていた[23]。だが、応仁2年、義廉が幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に和睦を提案、宗全と義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる。応仁29月22、しばらく伊勢に滞在していた義視は勝元や義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏10月16には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11月2312月19)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。一方で東幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく。大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城は西軍によって制圧されつつあり、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469)には大内氏の重臣で文武両道の名将として知られた益田兼堯石見で離反し、九州の大友親繁少弐頼忠と共に政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(14702月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。文明8年(1476)には和睦の動きが加速、9月には義政が政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には義視が義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答した。文明9年(14779月22には主戦派の義就が政長の追討を名目に河内に下国し、11月11147712月16)に大内政弘をはじめとする諸大名らが撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束した。義視も土岐成頼と共に美濃に退去、西軍の解体は僅か1日で終わったと伝えられている。9日後の11月20、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。

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