『歴史の時々変遷』(全361回)126“「応仁の乱」“畠山政長・義就の家督争い“ 「応仁の乱」“畠山政長・義就の家督争い“享徳4年3月26日(1455))に持国

応仁⑤『歴史の時変遷』(全361回)126“「応仁の乱」“畠山政長・義就の家督争い“

「応仁の乱」“畠山政長・義就の家督争い“享徳43月261455)に持国が没し、義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城木津を攻撃、勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で宗全は長禄2年に赦免、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった。長禄3年(1459)には弥三郎が赦免され、上洛を果たした。弥三郎は程無く死去、政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立され、寛正元年(14609月20には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。義就は河内嶽山城に籠もって徹底抗戦を図ったため義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた(嶽山城の戦い)。しかし義就は寛正4年(14634月15まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は紀伊、次いで吉野へ逃れた。寛正48月に義政の母日野重子が没し、大赦が行われた。これにより義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。この大赦を主導した義政側近の伊勢貞親には、義敏の妾と貞親の妾が姉妹であることや、勝元との対立などの動機があった。この前後の一貫性のない幕府・朝廷の対応を興福寺別当尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。一方、頻繁に行われた家督交替には理由があるとする見方もある。関東で幕府に反抗した鎌倉公方(後に古河公方足利成氏を討伐するため義政は長禄元年(1457)に異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが、長禄2年に鎌倉へ下向出来ず伊豆堀越に留まり(堀越公方)、斯波義敏を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治と内乱(長禄合戦)を起こしたため義敏を更迭、息子の松王丸(義寛)を斯波氏当主に替えた。寛正2年(1461)に松王丸から遠縁の斯波義廉に家督を替えたが、義廉の父渋川義鏡が政知の執事であり、その関係で堀越府の軍事力強化を目指したが、義鏡が関東の幕府方と対立、失脚したため義敏の復権を画策した。畠山氏についても、当初は勝元・宗全支持の弥三郎を避け、義就を引き立てることで畠山氏との提携を狙ったが、義就が上意を詐称した行為を繰り返したため政長に替えたが、寛正4年に義就を赦免した背景には義敏の赦免と合わせて、諸大名に対抗して新たな派閥形成を目論んでいたとされる。しかし、この構想で廃立されることを恐れた義廉が宗全と提携、義就とも結んで義敏の復権阻止に動いた。畠山氏の他にも斯波氏の武衛騒動を始め富樫氏小笠原氏六角氏でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。文正元年(14667月23、突然義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。8月25には越前尾張遠江守護職も与えている。義廉と縁戚関係にあった宗全は一色義直土岐成頼らと共に義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放、暗殺を図ったことから義視の後見人である勝元は宗全と協力して9月6に貞親を近江に追放(文正の政変)、政変に巻き込まれた真蘂、義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。14に家督は義廉に戻された。文正元年12月、宗全の支援をうけた義就は突如大軍を率いて上洛し、千本地蔵院に陣取った。文正21月21467、宗全に懐柔された義政が、当時管領職にあった政長や、細川勝元に断ることなく、将軍邸の町亭に義就を招いた。追い討ちをかけるように義政は正月恒例の管領邸への「御成」を中止し、3日後の5に義就が宗全邸で開いた酒宴に出席、その席で義政は義就の畠山氏総領を認め、政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。政長は反発して管領を辞任し、後任に山名派の斯波義廉が就任した。勝元は花の御所を占拠して義政から義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町亭を囲み義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放は認めなかったが、諸大名が一方に加担しないことを条件に義就による政長への攻撃を認めた。1月18、政長は無防備であった自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷いた。一方義就は後土御門天皇後花園上皇伏見宮貞常親王(上皇の実弟)を一つ車に御乗せして室町亭に避難させた。義政は畠山の私闘への関わりを禁じるが、宗全や斯波義廉、山名政豊(宗全の孫)、朝倉孝景らは義就に加勢した。一方勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかった。このため勝元は「弓矢の道」に背いたと激しい非難を受けた。御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就側は釈迦堂から出兵して政長を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走した。勝元邸に匿われたと言われる。御霊合戦は畠山の私闘とされたが、宗全が細川派を排斥しようとした事実上のクーデターであった。室町亭が山名軍に占拠されたために、勝元は形式上は幕府中枢から排除された。だが、勝元は京都に留まり続けただけでなく、非常事態を口実に細川京兆家の当主として、独自に管領の職務である軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行わせた。御霊合戦の後、勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させるなど緊張が高まった。3月5には元号が文正から応仁に改元された。4月になると、

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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