『戦国時代の群像』52(全192回) 「武田 勝頼」(1546~1582) 諏訪勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主

勝頼2『戦国時代の群像』52(全192回)

「武田 勝頼」(1546~1582) 諏訪勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国戦国大名甲斐武田家20代当主。通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭官位偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573)には信玄の死により家督を相続する。強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟佐竹氏との甲佐同で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図るが、織田信長の本格的侵攻(甲州征伐)により、天正10年(1582311日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く甲斐武田氏は(戦国大名家としては)滅亡した。天文15年(1546)、武田晴信(信玄)の四男として生まれる。生誕地や生月日、幼名は不明。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳、乾福院殿)。武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にあったが、父の晴信は天文10年(15416月に信虎を追放する形で家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、天文11年(15426月には諏訪侵攻を行い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する。晴信は諏訪残党の高遠頼継らの反乱に対し、頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を奉じて諏訪遺臣を迎合し、頼継を制圧する。晴信は、側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府躑躅ヶ崎館へ迎え、天文15年(1546)に勝頼が誕生する。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年828日には千代宮丸を擁立していた諏訪満隆が切腹を命じられており、反乱を企てていたと考えられている。信玄は信濃侵攻を本格化して越後国の上杉氏と対決し、永禄5年(1562)には川中島の戦いにおいて信濃平定が一段落している。信玄は信濃支配において、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っており、勝頼の異母弟である盛信は信濃仁科氏を継承して親族衆となっているが、勝頼も同年6月に諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り諏訪四郎勝頼となる(武田氏の通字である「信」を継承していない点が注目される)。勝頼は跡部右衛門尉ら8名の家臣団を付けられ、武田信豊らと共に親族衆に列せられている[9]。勝頼は城代・秋山虎繁(信友)に代わり信濃高遠城主となり、勝頼の高遠城入城に際しては馬場信房が城の改修を行う。 勝頼期の高遠領支配は3点の文書が残されているのみで具体的実情は不明であるものの、独自支配権を持つ支城領として機能していたと考えられている。ほか、事跡として高遠建福寺で行われた諏訪御料人の十七回忌や、永禄7年(1564)に諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納したことなどが見られる。初陣は、永禄6年(1563)の上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)。野氏の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山にて組み打ちを行い討ち取った[10]。その後の箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げた。その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、滝山城攻めでは北条氏照の家老・諸岡山城守と三度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦では殿を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行ったとされる。武田氏は相模北条氏と甲相同盟を結び、諸勢力とともに将軍足利義昭信長包囲網に参加し、元亀3年(1572)には西上作戦を開始するが、勝頼は武田信豊穴山信君とともに大将を努め、同年11月に徳川方の遠江二俣城を攻落し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦う。元亀4年(1573412日、信玄が西上作戦の途中で病死したため、武田姓に復し家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし表向きは信玄が隠居し、勝頼が家督を相続したと発表されていた。信玄の死により、織田信徳川家康らは窮地を脱した。そして信長は信長包囲網の黒幕である足利義昭を河内国に追放した。同年の天正への改元後、さらに越前国近江国に攻め入って朝倉義景浅井長政を滅ぼした。また家康も武田氏に従っていた三河国山間部の山家三方衆奥平貞能貞昌親子を寝返らせるなど、信玄存命中は守勢一方であった織田・徳川連合軍の逆襲が始まった。これに対して勝頼は、父以上の勢力拡大を目指して積極的な外征を実施する。天正2年(15742月、東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落とした。信長は嫡男・織田信忠と共に明知城の後詰(援軍)に出陣しようとしたが、それより前に勝頼が明知城を落としたため、信長は岐阜に撤退した。6月、遠江国の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった堅城・高天神城を陥落させて城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定した(高天神城の戦い)。さらに9月、天竜川を挟んで家康と対陣、その後浜松城に迫り、浜松城下に放火した。長篠の戦いによる敗退後、織田・徳川勢はさらに反攻を強め、天正3年(15756月に徳川家康は遠江国光明城静岡県浜松市)を落城させ、8月には諏訪原城島田市)を落城させる。徳川勢はさら小山城を包囲するが、勝頼は8月中旬に小山城へ出兵したため、徳川勢は撤退する。長篠合戦以後、三河から武田方が締め出されたのを皮切りに、天正311月には信長の下命を受けた嫡男・信忠を総大将とした織田軍によって東美濃岩村城岐阜県恵那市)を陥落させられ、織田方に降伏した飯田城代・伊那郡代である秋山虎繁は処刑された。遠江国でも、家康によって依田信蕃が降り、二俣城を奪還された。天正6年(157833日に徳川家康は田中城(静岡県藤枝市)を攻撃し、715日には高天神城攻撃の拠点となる横須賀城を完成させている。勝頼が越後上杉氏の御館の乱の発生により信越国境へ出兵中の8月に家康は小山城を包囲し、田中城への攻撃を開始する。このため、勝頼は越後から撤兵すると、10月に田中城・高天神城へ入る。113日には横須賀城へ侵攻し、家康と抗戦している。その後も両軍は交戦し、1017日には島田(島田市)、1019日には青島(藤枝市)で合戦があり、勝頼は田中城へ撤兵している。長篠合戦後、武田氏は領国再建のため越後上杉氏・相模後北条氏との同盟強化に着手する。信玄後期に後北条氏とは甲相同盟を復活し、上杉氏とは本格的な軍事的衝突こそないものの緊張関係が続いていた。翌天正6年(1578313日、越後国で上杉謙信が病死すると、北条氏政の弟(遠縁との説もある)で、北条から上杉に養子として出されていた上杉景虎(旧名・北条三郎)と謙信の甥で養子の上杉景勝の間で家督を巡り御館の乱が起こる。勝頼は氏政から景虎支援を要請され、5月下旬には武田信豊らを信越後信越国境へ派遣し、629日には自ら越後へ出兵し、景勝・景虎間の調停を試みる。景勝方から和睦が持ちかけられると、これを受け入れている[注釈 8]。これにより勝頼は景勝と和睦し、条件であった上杉領を接収すると、一方で景虎方との和睦調停も継続し、819日には春日山城において両者の和睦を成立させる。勝頼は徳川家康の小山城・田中城への攻撃に際して827日に帰国する。その間に景勝・景虎間の和睦は破綻し、天正7年(1579324日には景勝方の勝利により乱は収束する。一方、織田信長との関係は、長篠の戦い以降は小康状態が続いており、勝頼は佐竹義重を介して信長との和睦を模索する(甲江和与)。天正71116日には信長養女を母とする嫡男・信勝への官途奏請を行い、信勝は元服している。天正7年(15792月には上野国厩橋城の城代・北条高広が武田方に降伏している。423日に勝頼は駿河江尻城へ出兵すると、425日には高天神城に近い国安(掛川市)に本陣を置いた。家康は馬伏塚城から見付に本陣を置くと両軍は対峙し、勝頼は427日に国安から撤兵し、429日に大井川を越えると524日に甲府へ帰還した。前年の御館の乱・甲相同盟の崩壊を経て、天正77月には東上野に出兵し、敵対関係となった北条氏邦と対陣している。『甲陽軍鑑』によれば、氏邦は鉢形・秩父衆を率いて広木城美里町)・大仏城(美里町)を陥落させ、これに対して勝頼は西上野衆を率いて両城の奪還を試みるが、兵を引いている。同年9月には徳川・北条間に同盟が成立する。9月には北条氏政が沼津から三島へ侵攻し、913日に勝頼は駿河黄瀬川において氏政と対陣する。家康も氏政に同調し、当目坂城(静岡県焼津市)・持船城(静岡市駿河区)を落城させ、由比(由比町)・倉沢(菊川市)へ侵攻した。勝頼は10月に江尻城まで兵を引き家康を待ち構えると、家康は撤兵した。129日には甲府へ帰陣する。天正9年(1581)正月に、勝頼は現在の韮崎市中田町中條に新たに新府城を築城し、躑躅ヶ崎館要害山城の所在する甲府城下町からの本拠移転を開始した。一方、後北条氏に対しては、同年314日には佐竹義重を介して安房国里見義頼とも同盟を結んだ。勝頼は信長との和睦交渉を継続し、前年には勝頼側近の大竜寺麟岳らと協議し、武田家に人質として滞在していた織田信房(御坊丸)を織田家に返還し、信房を仲介に信長との和睦を試みた(甲江和与)。一方、信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇に勝頼を「東夷(=朝敵)」と認めさせ、石清水八幡宮などの有力寺社で祈祷が行われるなど、武田氏討伐の格好の大義名分を得ていた。信長は勝頼との和睦を黙殺し、12月には翌天正10年(1582)に武田領攻撃を家臣に通告する。天正10年(15822月、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返る。勝頼は外戚の木曾の反逆に激怒し、人質を処刑した上で即座に木曾討伐の軍勢を送り出した。しかし雪に阻まれ進軍は困難を極め、地理に詳しい木曾軍に翻弄された。その間に織田信忠が伊那方面から、金森長近飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻してくる(甲州征伐)。そして勝頼にとって間の悪いことに、織田軍の侵攻の始まった214日に浅間山が噴火した。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられており、さらに噴火のタイミングが朝敵指名および織田軍侵攻と重なってしまったために、武田軍は大いに動揺してしまったと考えられる。同年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとした。しかし、信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。しかし、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。享年37。これによって、450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡した。辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」。勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった小桜韋威鎧(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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