史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)125“応仁の乱」細川勝元と山名宗全二大勢力 「応仁の乱」細川勝元と山名宗全二大勢力・室町時代の応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)までの約10年間にわたって継続した内乱。

 応仁④ (2)『歴史の時変遷』(全361回)125“応仁の乱」細川勝元と山名宗全二大勢力

「応仁の乱」細川勝元と山名宗全二大勢力・室町時代応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)までの約10年間にわたって継続した内乱8将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領細川勝元室町幕府侍所所司(頭人)の山名持豊(出家して山名宗全)ら有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。応仁元年(1467)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱とも呼ばれる。鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食されつつあった。室町時代の権力者であった守護大名も例外ではなく、その領国支配は万全ではなかった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は3代将軍足利義満6代将軍足利義教の時を除いて成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。こうした環境は当時、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した3代将軍足利義満・4代将軍足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していた。籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教が専制政治をしいて守護大名を抑えつけ将軍の権力を強化するも、嘉吉元年(1441)に赤松満祐暗殺され(嘉吉の乱)、守護大名が盛り返し政権にほころびが見え始める。7代将軍は義教の嫡子義勝9歳で継いだが1年足らずのうちに急逝し、義勝の同母弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承、文安6年(144)に正式に将軍職を継承した。義政は母の日野重子や乳母の今参局らに囲まれ、家宰伊勢貞親季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて気まぐれな文化人に成長した。義政は当初は積極的な政治活動を見せていたが、側近と守護大名の対立などによって政治的混乱が続くようになると、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し幕政は実力者である管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていた。打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、それは長禄3年(1459)から寛正2年(1461)にかけて日本全国を襲った長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていた。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けた。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて再三将軍職就任を説得したことから寛正511261464)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458)、勝元が宗全の勢力削減を図って長禄の変に赤松氏遺臣が功績を建てたことを根拠に赤松政則加賀守護職に取立てたことから両者は激しく対立し、後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の一因となったともされる。しかしその一方で、文安4年(1447)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。後に述べる畠山氏の家督争いでは両者は協調しており、勝元は宗全の助命活動もしている。寛正611231465)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生すると実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を推す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に2分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。なお、細川・山名の両氏が対立関係となるのは寛正6年(1465)から文明6年(1474)までであり、勝元と宗全の対立を乱の原因とする理解は、『応仁記』の叙述によるものであるとの見解も提起されている。この頃、三管領1つ・畠山氏では畠山持国の家督継承をめぐる争いが激化していた。持国は弟の持富を養子に迎えていたが、永享9年(1437)に義就が生まれたため、文安5年(1448)に持富を廃嫡して義就を家督につけた。翌年には義政にも認められ、偏諱を授けられている。しかし畠山氏の家臣神保氏遊佐氏は納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張していた。このため享徳3年(145443神保国宗は持国に誅殺され、弥三郎・政長兄弟は勝元と宗全の下に逃れた。勝元と宗全、そして畠山氏被官の多くが弥三郎と政長を支持したため、821に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃、難を逃れた持国は828に隠居、義就は京都を追われ、義政は弥三郎を家督継承者と認めた。一方で弥三郎を匿った勝元の被官の処刑も命ぜられ、喧嘩両成敗の形も取られた。しかし宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。義政は宗全追討を命じたが、勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬に隠居することで決着した。126に宗全が但馬に下向すると、13に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走、再び義就が家督継承者となった。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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