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「二十二社巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物おおもの主ぬし大神おおかみ 奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社

お大神神社3「二十二社巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物(おおもの)(ぬし)大神(おおかみ)

奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・神武東征の以前よりこの地域纏向一帯に勢力を持った、先住氏族の磯城彦(しきひこ)が崇拝し、代々族長によって引き継がれた磐座(いわくら)祭祀(さいし)の儀式が行われたと思われている。皇室の崇敬も深く融和の為に外戚関係にあった。旧来は「大神大物主神社」と呼ばれてきた。大神神社には本殿がない、三輪山自体が神体としており、江戸時代に造営された拝殿から三輪山自体の御神体を仰ぎ見る「古神道」(原始神道)の形を残している。三輪山の祭祀は山や山麓に留まらず、初瀬川、巻向川に挟まれた地域から望拝して行われた。大神氏の同族は各地に点在し活躍したことは国史によって知られることで、天平神護元(765)神封一六〇個の内、大和三五戸、摂津二五戸、遠江十戸、美濃五十戸、長門三十戸、と各地に神封を得ている。また各地にミワ神社が祀られている理由が窺える。『延喜式』には名神大社、月次、相嘗、新嘗などの祭の幣を預かる。中世には大和国一ノ宮として二十二社の一に数えられ朝野の崇敬を受けた。拝殿の奥には三つ鳥居は明神鳥居三つを一つに組み合わせた特異な形をしている。鳥居から辺津磐座まで禁足地で、4,5世紀の布留式土器、須恵器など勾玉、臼玉などは出土され、大半の須恵器は堺市の泉北古窯で焼かれたことが判明され、何らかの関係が有ったのかと思われている。

『古事記』に大国主神が国造りに少彦名神と共に精を出して平定をしていたが、ある時、少彦名神は常世国に行ってしまい途方に暮れておる時に海原の彼方から現れた「幸魂奇魂」であり、大和国の東方の山に祀れば国造りを手伝いと言った。その山とは三輪山(御諸山)に鎮座する大物主神であった。★『古事記』の説話に崇神天皇の御世に、疫病が盛んに流行って、国民が絶えてしまう程であった。天皇は心配され、神の信託を得ようと床に就かれ眠ろうとされた夜に、大物主神の御夢にはっきりと現れて「この疫病は、私が引き起こしたもので、()()多々(たた)()()によって、私を祭ってくださるならば、国も安らかになるであろう」とお告げがあった。そこで早馬の使者を四方に分けて出し、()()多々(たた)()()と言う人を探し求めたところ、河内国の美怒村でその人見つけた、そしてその人を献上した。天皇はその人に「お前は誰の子だ」と尋ねられた。するとその者は「私は大物主神が、陶津(すえつ)(みみ)(みこと)の娘の活玉依(いくたまよりびめ)と結婚をして生んだ子の、名は(くし)御方(みかた)(みこと)の、またその子の(いひ)(かた)()()(みこと)、さらにその子の建甕遣(たけみかずち)(みこと)の子が、私を含め意富多々泥古であります。」と答えた。これを聞き天皇はたいそう喜ばれて「これで天下泰平になる、人民は栄えるであろう」と意富多々泥古命を神主として、御諸山(みもろやま)に、大三輪神社の神である大物主神をお祭りになったと言う。★【古事記』この美和の大物主神の説話については大和の国津神と征服者の天津神の融合と一般的に考えられる。この融合は新旧の勢力の対立から起きた、禍を指すのかもしれない。三輪神社に伝わる説話にこんな話がある。【オオタタネコがオオモノヌシの子孫であると云い伝える物語がある。あおのイクタマヨリビメは容姿端麗な美人だった。ところが夜半になると、鍵音もなく忍び寄る男がいた。見れば容姿も良く、二人はたちまち相思相愛の仲になり、親の目を盗んでは同棲生活をした、その内姫は妊娠をしてしまった。当然のことながら、娘の異変に気付いた両親は「お前は身籠ったようだが、どうしてそのようになったのか」と問い詰めた。「名前は知りませんが、毎夜私のもとにやって来て、一緒に過ごすうちに、何時の間にか出来てしまったのです」姫は答えた。】これはオオタタネビコを三輪のオオモノヌシの子孫とする系譜に伝わる話である。因みに三輪の地名に、麻糸が三輪残ったので、美和(三輪)と名付けた。★天津神の子孫は、国譲りで、国つ神の葦中国を得たので、その恨みや不満での禍を恐れた、そのための国津神の御霊を癒す試みを、子々孫々の融合を考えられた。【イクタマヨリヒメは容姿端麗な美人だった。毎夜姫の所に通う美男子に相思相愛、たちまち子供を宿り、親に発覚、男の素性を知りたく、麻糸を男に付け、床に赤土を巻いたが痕跡は出てこなかった。糸を手繰って行くと三輪山に辿り着き、三輪神社の神のオオタネヒコであった話である。】☆もう一つオオモノヌシ伝説に孝霊天皇の皇女のヤマトトトヒモモソヒメがオオモノヌシの妻になった話、【崇神紀に皇女ヤマトトヒモモヒメガオオモノヌシの妻となった時に、神の姿を櫛箱に入っている子蛇を見て驚いて叫ぶと、辱められたと、怒って三輪山に帰ってしまった。姫は箸で陰(ホト)を突いて急死をした。】そしてその墓が箸塚古墳で今一番卑弥呼の墓として注目されている。この説話はこの地の豪族が征服した王族に服従したことになぞらえたのかも知れない。

◎上記の『古事記』の説話を見ても大神神社が「国つ神」の代表として影響力を持っていたかが窺い知れる。

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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