『戦国時代の群像』49(全192回) 筒井 順慶」(1549~1584)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。得度して順慶と称

筒井1『戦国時代の群像』49(全192回)

筒井 順慶」(1549~1584)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名。得度して順慶と称する前は、室町幕府13将軍足利義藤(後の義輝)偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和郡山城主。事績については『多聞院日記』に詳らかに記述されている。大和国戦国大名筒井順昭の子として生まれた。 母は山田道安の娘・大方殿。天文19年(1550)、父が病死したため、叔父の筒井順政の後見の元、わずか2歳で家督を継ぐこととなる。当時の大和は「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏箸尾氏十市氏や僧兵を擁した興福寺の勢力が強く守護職の存在しない国であったが、永禄2年(1559)から三好長慶の寵臣である松永久秀が侵攻し、永禄5年(1562)には筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。更に永禄7年(1564)には叔父の順政は死去してしまう。翌永禄8年(15658月、三好三人衆松永久通の軍勢が将軍足利義輝を暗殺したが(禄の変)、同1116日、松永久秀と三次三人衆は決裂してしまう。松永久秀は急遽、後ろ盾を無くした順慶の基盤が揺らいでいる所に奇襲を仕掛け、同1118日、順慶は居城・筒井城を追われている(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春・高田当次郎といった麾下の勢力が順慶を見限り離れている。居城を追われた順慶は、一族の布施左京進のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。一部の史料は河内国へ逃れたと伝えるが、あまり信憑性はないと言われている[2]。筒井城を奪還した順慶は春日大社に参詣した。この時、宗慶大僧都を戒師として藤政から陽舜房順慶と改名した(正式に順慶を名乗るのはこの時から)。翌永禄10年(1567)には再び三人衆や篠原長房と結んで奈良にて久秀と刃を交えている(東大寺大仏殿の戦い)。この頃、織田信長の台頭が著しくなり、永禄11年(1568)に15将軍足利義昭を擁立して上洛、三人衆を駆逐して影響力が畿内一円に及ぶようになる。機敏な松永久秀は迅速に織田信長・足利義昭と誼を通じたが、対する順慶は久秀の打倒に専念するあまり、情報収集が遅滞した。時流に乗ることに遅れた順慶を見限り、菅田備前守などの家臣が順慶から離反している。そして、足利義昭から大和の進退の一任を得た松永久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫った。順慶は奮戦したが衆寡敵せず、叔父の福住順弘の下へと落ちのびた。福住城に潜伏して雌伏の時を過ごしていた順慶だが、元亀元年(1570)に十市遠勝の死によって内訌を生じた十市城を攻め落とす。さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀と渡り合う為に着々と布石を打っていった。元亀21025日、順慶は明智光秀の斡旋をもって信長に臣従し、久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従したので、同年11月1、佐久間・明智が来て取きめ、両者は和睦した。対する久秀は同じく信長と反目するようになった将軍・足利義昭などと結託するようになり(信長包囲網)、久秀と和議を結んだ順慶は、北小路城に久秀・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた[要出典]。元亀4年(1573)になると4月に信玄が病死、7月に義昭が槙島城の戦いに敗れて京都を追放され、それを匿った義継も11月に信長に討伐されると(若江城の戦い)、12月、松永久秀も多聞山城を落とされ降伏した。この頃には順慶は織田信長に接近していたと見られ、松永方となっていた河内私部城を陥落させている。翌天正2年(1574)正月、久秀は岐阜城に伺候しており、同じ月に順慶も岐阜を訪れ織田信長に拝謁している。また同323日、信長の臣従に際しその証として母親を人質として差し出している[9]。その後、順慶は信長傘下として主に一向一揆討伐などに参戦して活躍した。三好義継討伐では先陣を務め、天正3年(1575)の長篠の戦いにおいては信長に鉄砲隊50人を供出、同年8月の越前一向一揆攻略にも5,000の兵を率いて参戦した。翌天正4年(15765月10、信長により大和守護に任ぜられた。5月22には、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬や馬を賜っている。天正5年(1577)、順慶は他の諸将と共に反乱を起こした雑賀一揆を鎮圧した(紀州征伐)。同年、久秀が信長に対して再度謀反を起こすと、信貴山城攻めの先鋒を務めている(信貴山城の戦い)。手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。10月10、遂に城は陥落、久秀父子は自害して果てた。信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと『大和軍記』は伝えている。また、『大和志科』は、久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。久秀父子の滅亡もあって、天正6年(1578)に大和平定が果たされた。同年、信長の命令により龍王山城を破却している。同年4月、播磨攻めに参戦。6月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。帰国後の10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を鎮圧。天正7年(1579)には、信長に反旗を翻した荒木村重が篭る有岡城攻めに参加した(有岡城の戦い)。天正8年(1580)、居城を筒井城から大和郡山城へ移転する計画を立てていた所に、信長より本城とする城以外の城の破却を促す通達が寄せられる。順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移転した。筒井城から大和郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。同年、やはり信長の命令により大和一帯に差出検地を実施している。これに伴い、岡弥二郎・高田当次郎・戒重ら、かつて松永久秀に追従していた筒井家配下の人物達が、信長に一度離反した咎で明智光秀らの主導で処断された。翌天正9年(1581)には、かねてより確執があった吐田遠秀を闇討ちにして葬っている。同年の天正伊賀の乱では他の武将と共に織田信雄に属し、大和から伊賀へと進攻、3,700の手勢を指揮し、蒲生氏郷と共に比自山の裾野に布陣するが、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。この時、伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣が順慶の窮地を救ったと言われる(比自山城の戦い)。その経緯については『伊乱記』が詳しく描写している。順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。その後も評定を重ね、一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。6月10には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。光秀は親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、洞ヶ峠に布陣し順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている。光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、所謂洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さで病死した。筒井家は定次が継いだ。順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、自身が僧でもあった関係で(筒井家は元々興福寺衆徒大名化した家である)、仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く保護したとも言われている。順慶の重臣だった島清興は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後に石田三成の腹心となり関ヶ原の戦いに参加して勇名を馳せた。筒井家は順慶亡き後31年目に、定次が豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられたことで絶家した。大名家としては滅亡したが、現在も真偽は別として順慶の傍系子孫と伝えられている家は少なくない。 山口県文書館所蔵の毛利家文庫の中に、順慶の没後に生まれた実子(順正)が存在したという記述があるが、史実とは認めがたい。

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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