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『歴史の時々変遷』(全361回)121”享徳の乱“ 「享徳の乱」享徳3年12月27日(1455~1483)は、室町幕府8代将軍足利義政

 享徳8『歴史の時変遷』(全361回)121”享徳の乱“

「享徳の乱」享徳312月274551483は、室町幕府8将軍足利義政の時に起こった室町時代関東地方における内乱。第5鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠暗殺した事に端を発し、幕府方、山内扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。享徳31227日(1455)、景仲が鎌倉を不在としている留守の隙を狙った成氏は、憲忠を西御門にある自分の御所に招くとこれを謀殺。里見氏、武田氏等の成氏側近が山内上杉邸を襲撃して長尾実景憲景父子も殺害した。在京していた憲忠の弟房顕は兄の後を継いで関東管領に就任、従弟の越後守護上杉房定(房朝の従弟で養子)と合流して上野平井城に拠り、「享徳の乱」が勃発した。景仲らは直ちに兵を集めたものの、越後軍の関東下向前に武蔵分倍河原の戦いで成氏軍の前に大敗を喫して武蔵を追われ常陸小栗城に逃走したが、事前に憲忠謀殺を幕府へ報じ、成氏征討を要請していた。成氏討伐を決定した幕府は駿河守護今川範忠に出陣を命じたが間に合わず、小栗城は成氏により落とされた。成氏は宇都宮等綱を降すなど各地を転戦していたが、北関東の上杉方の攻略に手間取っている間に留守にしていた本拠地鎌倉を今川範忠により占拠され、鎌倉の勝長寿院にいた成氏の兄弟である成潤日光山に奔って上杉方と通じた。 このため、成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総古河に入った。以後成氏は古河城を本拠地とし古河公方と呼ばれた。この戦乱は各地に波紋を広げた。この年(元年)、千葉氏では成氏に通じた分家の馬加康胤と重臣の原胤房が挙兵して本家の千葉胤直胤宣父子を倒して家督を奪っている。この時、千葉氏の援軍に駆けつけた大掾頼幹も自害している。翌康正2年(1456)には上杉派の宇都宮等綱が成氏に居城の宇都宮城を包囲され、成氏に寝返った重臣達に追放され流浪、息子の明綱は降伏して成氏に従った。同年、房顕は武蔵に入り成氏と交戦を続けた。一連の戦いの結果、関東地方は当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になる。長禄2年(1458)、将軍義政は成氏への対抗策として、前年に還俗させた異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。政知には山内上杉家の他、渋川義鏡上杉教朝などが配下として付けられていたが、実権は全て幕府に握られており、関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆の堀越に入り、堀越公方と称した。義政は続いて征討軍を派遣する予定だったが、総大将の斯波義敏が自分の領国・越前に出兵した(長禄合戦を参照)為に追放、征討どころではなくなってしまった。一方房顕は長禄3年(1459)、太田庄の戦いにおいて大敗を喫した。以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで長期にわたって睨み合った(五十子の戦い)。房顕は寛正7年(1466)に五十子で病に倒れて陣没。これに対して幕府は上杉房定の子を房顕の養子として後を継がせるように命じた。これを受けて房定の次男・上杉顕定が後継者となった。だが、寛正2年(1461)に岩松持国次郎父子が従兄の岩松家純に謀殺され、寛正6年(1465)には長尾景人が房顕の推挙を受けて幕府から足利氏発祥の地・下野足利庄の代官職に補任され、翌年秋に景人は同庄勧農城に入部して下野に上杉方の拠点を築いた。応仁2年(1468)、上野で綱取原合戦が勃発、上杉軍が勝利して、文明元年(1469)に成氏についた持国の次男成兼が上杉方の家純に追放され、岩松氏を家純が統一する等、徐々に上杉側は反撃に打って出た。文明3年(1471)、成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻し、政知は三島で敗退した。顕定ら上杉方は成氏方の主力が伊豆に出陣している留守を狙い、古河に出陣。小山持政を離反させて下野国内の諸城を降した。だが、翌年には成氏も古河城を奪還して勢力の巻き返しに出た。この間、成氏は幕府主導の改元に従わず、享徳の年号を使い続けた。文明8年(1476)、上杉家有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事(家宰・家務)になれなかった不満のため、鉢形城にて挙兵し文明91月(14772月)には五十子を陥落させた(長尾景春の乱)。危機感を抱いた顕定は文明10年(1478)、成氏と和睦を成立させたそしてなお反抗をつづける千葉孝胤境根原合戦で破った。翌文明11年(1479)、成氏は幕府とも和議を申し出、文明141127日(148316日)に至り、ようやく幕府と成氏との和睦が成立した(都鄙合体)。これによって成氏が引き続き関東を統治する一方で、伊豆の支配権については政知に譲ることになった。成氏による反幕府的行動は停止されたが、配下の諸将を多く持つ古河の成氏と、幕府公認の公方として権限を持ちながら関東に入れない堀越の政知の2人の公方が並存する状態が続くこととなった。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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