『戦国時代の群像』47(全192回) 「小早川 隆景」(1533~1597)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。

 小早川3『戦国時代の群像』47(全192回)

小早川 隆景」(1533~1597)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名。竹原小早川家第14代当主。後、沼田小早川家も継ぐ。毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元吉川元春などがいる。竹原小早川家を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年(1595)に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の主導者であった。天文2年(1533)、毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名は徳寿丸。天文11年(1541)に竹原小早川家の当主・小早川興景が死去。継嗣が無かったため、竹原小早川家の重臣らは元就に対し徳寿丸を後継に求め、大内義隆の強い勧めもあり元就はこれを承諾した。徳寿丸は元服し、義隆の偏諱を賜い隆景と称した。元就の姪(毛利興元の娘で隆景の従姉)が興景の妻だった縁もあり、この養子縁組は小早川家中でも平和裏に進み、天文14年(1544)に隆景は竹原小早川家の当主となる。天文16年(1547)、大内義隆が備後神辺城を攻めたときに従軍し、初陣を飾った。この時、隆景は神辺城の支城である龍王山砦を小早川軍単独で落とすという功を挙げ、義隆から賞賛された。一方、小早川氏の本家・沼田小早川家の当主であった小早川繁平は若年で病弱な上、眼病により盲目となっていたため、家中は繁平派と隆景擁立派で対立し、大内義隆は尼子氏の侵攻に堪えられないのではと懸念した。天文19年(1550)、義隆は元就と共謀し、乃美隆興景興父子を中心とした隆景擁立派を支持、尼子氏との内通の疑いで繁平を拘禁し、隠居・出家に追い込んだ。そして隆景を繁平の妹(後の問田大方)に娶せ、沼田小早川家を乗っ取る形で家督を継がせることで、沼田・竹原の両小早川家を統合する。その時、繁平派の田坂全慶ら重臣の多くが粛清されている。なお、隆景と問田大方との間には子供ができなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった。隆景は沼田小早川家の本拠高山城に入城するが、翌年の天文21年(1552)には沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築城し、新たな本拠とする。その後、弘治3年(1557)に周防長門を攻略し、大内氏を滅ぼした戦い(防長経略)にも参加している。同年、元就が隠居し、長兄の毛利隆元が家督を継ぐが、隆景は次兄の吉川元春と共に引き続き毛利氏の中枢にあり続ける。永禄6年(1563)、隆元が急死し、甥の毛利輝元が家督を継ぐと、元春と共に幼少の輝元を補佐した。元春が軍事面を担当したのに対し、隆景は水軍の情報収集力を活かし主に政務・外交面を担当している。永禄5年(1562)から永禄9年(1566)にかけての月山富田城の戦いで、宿敵尼子氏を滅ぼす。続く永禄10年(1567)には河野氏を助けて伊予国に出兵し、大洲城を攻略して宇都宮豊綱を降伏させる(毛利氏の伊予出兵)。さらに大友氏と争い九州に出兵する。この年、来島通康が没すると、隆景は未亡人となった宍戸隆家の娘を通康の主筋にあたる河野通宣の室に送り込み影響力を強めた。近年、河野氏最後の当主となった河野通直は、宍戸隆家の娘と村上通康の間の息子で、隆景らの後押しで河野氏の養嗣子になったとする説が出ている[2]天正2年(1574)に入ると、織田信長の勢力が毛利氏の勢力範囲にまで迫るようになる。この年、浦上宗景が織田氏の支援を受け、毛利氏と戦いを交え、天正3年(1575)には三村元親が織田方に通じて裏切る。隆景は三村氏を討伐し、豊後国大友宗麟が信長と通じて侵攻してくると、水軍を率いて大友軍と戦った。天正4年(1576)、に落ち延びてきた室町幕府15将軍足利義昭の強い誘いもあり、毛利氏は織田氏と断交し、元春が山陰、隆景が山陽を担当し、第2次信長包囲網の一角として織田方と戦うこととなる。信長包囲網の中心的存在であった石山本願寺を救援した第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍、村上水軍を主力とする毛利水軍が、織田方の九鬼水軍を破った。しかし2年後の天正6年(1578)には第二次木津川口の戦い鉄甲船を配備した九鬼水軍に敗れ、制海権を失う。同年、上洛を目指していたといわれる上杉謙信が急死し、天正8年(1580)には石山本願寺が信長と講和し大坂を退去して信長包囲網は崩壊する。織田方の中国方面軍司令官である羽柴秀吉の硬軟織り交ぜた攻略は次第に激しさを増し、毛利氏は押され続けることとなる。天正7年(1579)には備前国の宇喜多直家が織田方に離反。天正8年(1580)には2年間にわたり織田方に抗戦(三木合戦)してきた播磨三木城が陥落、別所長治が自害する。さらに天正9年(1581)には因幡鳥取城が餓死者が出る籠城戦の末陥落し、城主・吉川経家が自害している。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは中立を保ったが、この戦いで秀吉が柴田勝家を破ると、毛利氏は日和見路線を捨て、秀吉に従属した。この時、隆景は養子の小早川元総(弟、後に秀包と改名)を人質として秀吉に差し出している。その後は秀吉に積極的に協力し、天正13年(1585)の四国攻めでは伊予国の金子元宅を破り討ち取るなどの功績を挙げた。豊臣政権は大名統制策として隆景に伊予一国を与えて独立大名として扱ったが、隆景側は一度毛利家に与えられた伊予を改めて受領する形で毛利家の一武将としての体裁を保った。湯築城に入城した隆景は大洲城に秀包を配置するなど伊予の統治を開始し、河野通直を道後に隠居させて旧河野家家臣や西園寺公広とその家臣を配下とした。天正14年(1586)からの九州征伐にも参加し、戦後に秀吉から筑前筑後肥前1郡の371,300石を与えられた。しかし九州征伐で次兄・元春とその嫡男・元長が相次いで陣没したため、隆景は1人で輝元を補佐し、毛利氏を守っていくことになり、そのため九州の所領支配までできないとして1度は断った。しかし秀吉は小早川領を豊臣家蔵入地とし、隆景にその代官をするように迫り、隆景も肥後国佐々成政と交替でなら引き受けるとしたが、これも許されず結局豊臣政権下の独立した大々名として取り立てられた。隆景はこの時、「筑前は吾に過ぎたる事だ。最近まで敵だった身に大国を与えられるとは、吾を愛するに非ず。九州を手なずけるための仮の謀よ」と述べたという。なお、隆景はあくまで毛利家の家臣として筑前は自分の領国とせず、豊臣家からの預かり物として管理した。天正16年(15887月の上洛時には、秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓を下賜された。天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍し、この際は徳川家康三河岡崎城を預かっている。文禄元年(1592)に文禄の役が始まると、6番隊の主将として1万人を動員して出陣し全羅道攻めを行うが、抵抗を受け本格的な攻略を行わないうちに援軍に来た軍に対応するために京畿道へ配置転換され、文禄2年(1593)に碧蹄館の戦いにおいて明軍本隊を立花宗茂と共に撃退した。文禄3年(1594)には豊臣家から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊を毛利本家の養子に迎える事を提案される。『芸侯三家志』によると40歳になる輝元には跡継ぎとなる実子が無く、そこで秀吉は秀俊を養子に送り込もうとした。しかし、秀俊の器量に不安があったことと毛利氏の血統を保持することを重視した隆景は、秀吉に謁見して輝元には従弟・毛利秀元を養子にする事が定まっていたとして養子縁組を拒否し、代わりに自らが秀俊を養子に迎えた。文禄4年(1595)に秀吉が発令した「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において、家康や前田利家等と共に五大老の一人に任じられた。その後、秀俊改め秀秋に家督を譲って隠居し、家臣団と共に三原に移る[9]。その際、秀吉から筑前に5万石という破格の隠居料を拝領する。その際、名島城を大改修して居城とした。慶長2年(1597年)612日急逝、享年65。死因は卒中といわれた。

 

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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