史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『戦国時代の群像』46(全192回)「大友 義鎮 / 大友 宗麟」(1530~1587)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名

大友1『戦国時代の群像』46(全192回)「大友 義鎮 / 大友 宗麟」(1530~1587)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名キリシタン大名豊後国大友氏21代当主。宗麟法号で知られている。大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。父は20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、周防国大内氏の家督を継いだ大内義長(晴英)と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、塩市丸親貞など。子に義統(吉統)、親家親盛など。海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。享禄3年(153013日、大友家20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれる。傅役は重臣・入田親誠が務めた。父義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、傅役の入田親誠と共に義鎮の廃嫡を企ん天文20年(1551)に周防の大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英(大内義長)を大内家の新当主として送り込んだ。これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門国方面にも影響力を確保した。特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。また復権を目論む叔父の菊池義武の反乱を退け、天文23年(1554)には菊池氏を滅亡させて肥後国も確保した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエル宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き天文22年(1553)に一萬田鑑相(のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父)、弘治2年(1556)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。また、この頃に義鎮は本拠地を府内から丹生島城(臼杵城)に移している[4][5]。さらに弘治3年(1557)、大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、これと内通した筑前国秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。天文23年(1554)に室町幕府13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化していた義鎮だが、永禄2年(1559)には義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国・筑前の守護に任ぜられ同年11月には九州探題に補任された[7]。永禄3年(1560)には、左衛門督に任官する。 このように義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出した。しかし、永禄5年(1562)には、門司城の戦いで毛利元就に敗れた。同年に出家し休庵宗麟と号す。その後も足利将軍家には多大な援助を続け、永禄6年(1563)には足利義輝の相伴衆に任ぜられ、永禄7年(1564)には義輝に毛利との和睦の調停を依頼して、北九州の権益の確保を実現するなど関係は密であった。毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになり、和睦は破れる。永禄10年(1567)、豊前や筑前で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。また、この毛利氏との戦闘の中で宗麟は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出している。永禄12年(1569)、肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて侵攻するが元就が筑前に侵攻してきたため、慌てて撤退する。そして多々良浜の戦いで毛利軍に打撃を与える一方で、重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を安芸国に撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。天正4年(1576)、家督を長男の義統に譲って隠居する。このときから義統と二元政治を開始した。天正5年(1577)、薩摩国島津義久日向国に侵攻を開始すると、宗麟も大軍を率いて出陣した。しかし天正6年(1578)に耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。また、耳川の戦いの原因となった島津軍の北上の一因には毛利輝元の下に亡命していた足利義昭の影響を指摘する説がある。義昭は毛利氏が上洛に踏み切らないのは宗麟が背後を脅かしているからだと考え、島津氏を初め龍造寺氏や長宗我部氏らに大友氏を攻めさせようと外交工作を行ったとされる。その結果、宗麟は将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」と糾弾され、周辺の大名を悉く敵に回すことになった。宗麟は織田政権に接近してこの苦境を打破しようとする。さらに天正7年(1579)頃からは、蒲池氏草野氏黒木氏などの筑後の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、また、家督を譲った義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎさらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。宗麟は本州で大勢力となった織田信長に接近し、島津氏との和睦を斡旋してもらう。さらに信長の毛利攻めに協力することなどを約束していたが、本能寺の変で信長が倒れたことによりこの和睦も立ち消えとなった。天正12年(1584)に沖田畷の戦いで龍造寺隆信が義久の弟島津家久に大敗北を喫し敗死すると、立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後の大半を奪回した。しかし天正13年(1585)に道雪が病死してしまい、これを好機と見た島津義久の北上が始まることとなる。家臣の高橋紹運立花宗茂父子の奮戦で島津軍の侵攻を遅らせたが(岩屋城の戦い)、もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなっていた。このため天正14年(1586)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願する。しかし島津義久はその後も大友領へ侵攻し(豊薩合戦)、天正14年(1586年)12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。この時、臼杵城に籠城していた宗麟は大砲・国崩し(フランキ砲のこと。その大きな威力からこのように名づけられた)を使って臼杵城を死守し戦国大名としての意地を見せた[15]。 しかし大友氏はもはや数ヶ月すら持ち堪えられないところまできており、島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められた。天正15年(1587年)、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が九州に到着。さらに遅れて秀吉自身も10万の兵を率いて九州平定に出陣、各地で島津軍を破っていく。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後津久見で病死した。58歳。死因はチフスが有力とされる。九州平定後、秀吉の命令で義統には豊後一国を安堵された。秀吉は宗麟に日向を与えようとしていたが統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去したとされている。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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