『戦国時代の群像』42(全192回) 「荒木 村重」(1535~1586)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である

村重4『戦国時代の群像』42(全192回) 

「荒木 村重」(1535~1586)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名利休十哲1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。荒木氏は波多野氏の一族とされ、先祖は藤原秀郷である。天文4年(1535)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。その後、元亀2年(1571828日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。天正2年(1574115日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。翌年には有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして同郡を平定する。村重は細川政権三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城越水城の両城を廃して有岡城(伊丹城の改称)を中心とした新たな支配体制を構築した。以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦高屋城の戦い天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。この間、従五位下摂津守に任ぜられる。天正6年(157810月、三木合戦羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由は後述)。一度は糾問の使者(明智光秀松井友閑万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(157992日、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城(大物城)へ移ってしまった。1119日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。1213日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。1216日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。天正9年(1581817日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。しかし肝心の村重本人は息子・村次とともに荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命し、尾道に隠遁したとされる[7][8]。天正10年(15826月、信長が本能寺の変横死するとに戻りそこに居住する。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。しかし有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていた村重は、小西行長や高山右近を讒訴して失敗し、秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。さらに、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)となった(はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている)。天正14年(158654日、堺で死去。享年52

 

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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