『歴史の時々変遷』(全361回)114“応永の乱” 「応永の乱」室町時代の応永6年(1399)に、守護大名の大内義弘が室町幕府

応永9歴史の時変遷』(全361回)114“応永の乱”

応永の乱」室町時代応永6年(1399)に、守護大名大内義弘室町幕府に対して起こした反乱である。室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体だった。3代将軍足利義満は将軍権力を強化するため、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強した。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379)、細川氏斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させた(康暦の政変)。康応元年(1389)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下す(土岐康行の乱)。そして明徳2年(1391)、11カ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙氏之の兄弟を一族の氏清満幸に討たせて没落させた。。大内氏百済聖王(聖明王)の王子琳聖太子を祖と称し、周防に土着して武士となり、鎌倉幕府御家人に連なった。南北朝の争乱では南朝に付くが後に北朝に帰順して九州菊池氏らと戦い、幕府から周防・長門石見の守護職に任じられた。大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられた。明徳の乱では義弘は大いに奮戦して武功著しく、和泉紀伊の守護職を与えられる。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになった。義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていた。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていた。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘った。しかし、諸大名の中で義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、義満の不興を買った。同年末、義弘は少弐氏討伐を命じられ、筑前で戦い弟の満弘が討死するがその子への恩賞の沙汰が無く不満を募らせ、義満が裏で少弐氏と菊地氏に義弘を討つように命じていたとの噂もあり憤慨していた。義満は度々義弘へ上洛を催促するが、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、義弘を不安にさせた。追い込まれた義弘は鎌倉公方足利満兼と密約を結んだ。この密約は今川了俊が仲介した。了俊は義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江駿河半国守護に左遷されていた。さらに義弘は、先年の土岐康行の乱で没落していた美濃土岐詮直、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男宮田時清近江京極秀満出雲守護京極高詮の弟)や比叡山興福寺衆徒、楠氏・菊地氏ら旧南朝方と連絡をとり挙兵をうながした。応永6年(13991013日、大内義弘は軍勢を率いて和泉堺の浦に着き、家臣の平井新左衛門を入洛させるが、自身は参洛しなかった。義満の元に大内義弘謀反の噂が伝わる。義満は青蓮院門跡尊道法親王に仕える伊予法眼を堺へ送り上洛を促すが、義弘は「意に沿わないことがある」と参洛に応じない。1027日、義満は禅僧絶海中津を使者として堺へ派遣した。義弘は一門重臣たちと対応を内談。弟の弘茂は上意に従い参洛することを主張。平井備前入道も恭順して嘆願すべきであり、さもなくば朝敵となり御家滅亡になると義弘を説得した。絶海中津からの報告を受けた義満は翌1028日に義弘討伐を命じる治罰御教書を出した。ただちに細川頼元、京極高詮、赤松義則の先発隊6000余騎が淀から和泉へ発向する。118日、義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構えた。1114日、義満は八幡まで進み、管領畠山基国と前管領斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ発向した。義弘は評定を開き作戦を談じた。弟の弘茂は城を構えて和泉、紀伊に割拠して持ちこたえる策を提案。杉豊後入道は機制を制して舟で尼崎に上陸して八幡の陣を突き決戦することを主張した。かねてから謀反を諌めていた平井備前入道は出戦は無益であるとし篭城策を説いた。義弘は篭城策を採った。義弘は材木を集め、井楼48と矢倉1000余を建てて堺に方18町の強固な城を築き、「たとえ百万騎の軍勢でも破ることはできない」と豪語した。一方で、義弘は討死を覚悟して、かねて帰依していた僧を招き自らの葬儀を執り行った。また、周防に残した母に形見と遺言を送り、弟の盛見には分国を固く守るよう申し送った。義弘に従う者たちもみな討死を覚悟した。幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上は四国淡路海賊衆100余艘が封鎖した。義弘は森口城で戦っていた杉九郎と鴨山に配備した杉備中守を立退かせて堺に兵力を集中させた。義弘の軍勢は5000余騎。1129日、幕府軍が一斉に鬨の声をあげて総攻撃を開始した。大内勢はこれに応じて、矢倉からさんざんに射まくった。管領畠山基国の軍勢2000余騎が北側の一の木戸、二の木戸を打ち破り、三の木戸まで攻め寄せ700人余が死傷する激戦を展開する。畠山勢に代って山名時熙の軍勢500余騎が攻め寄せ、城内からは杉豊後ら500余騎が出撃して戦う。義弘も200余騎を率いてこれに合力する。伊勢国司北畠顕泰の軍勢300余騎が山名勢に加勢、子息の満泰が討死する程激しく戦った。細川勢、赤松勢の5000余騎は南側から、六角勢、京極勢は東側から攻め寄せる。戦いは夜まで続き、無数の死傷者が出た。その頃、義弘に同心した土岐詮直が挙兵して尾張へ討ち入り、美濃国へ侵攻した。美濃守護の土岐頼益は大内攻めの陣にいたが、直ちに美濃へ引きかえして詮直を打ち破る。宮田時清も義弘に同心して丹波へ討ち入り、へ侵入して火を放ち、300余騎で八幡の幕府軍本陣を目指して突入した。時清の軍勢は幕府軍の陣を次々に打ち破るが力尽きて退却した。京極秀満は近江で挙兵して、京への侵攻を図った。三井寺の衆徒500人が勢多でを焼いてこれを待ち受ける。秀満はやむなく森山に陣を構えて対峙した。大内攻めに加わっていた京極勢1000余騎が引き返して森山へ迫ると、秀満は土岐詮直と合流すべく美濃へ向かうが途中で土一揆の蜂起に遭って潰走、秀満は主従2騎で落ちて行方知れずになった。なお、秀満の官職が金吾(左衛門尉)であったことから、この挙兵だけを指して金吾騒動(きんごそうどう)とも称する。鎌倉公方足利満兼は1万騎余を率いて武蔵府中高安寺まで進んだが、関東管領上杉憲定に諌められて兵を止めた。各地に反幕府勢力が挙兵したが悉く鎮圧され、義弘も戦死、弟弘茂は降伏した。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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