史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)112“明徳の乱” 「明徳の乱」南北朝時代(室町時代)の元中8年/明徳2年(1391)に山名氏清

観応8 (2)『歴史の時変遷』(全361回)112“明徳の乱”

「明徳の乱」南北朝時代室町時代)の元中8/明徳2年(1391)に山名氏清山名満幸山名氏室町幕府に対して起こした反乱である。内野合戦とも呼ばれる。山名氏新田氏の一族であったが、山名時氏の時に鎌倉幕府に対する足利尊氏の挙兵に従い、南北朝時代の争乱でも足利氏に味方して功があった。観応の擾乱では尊氏の弟足利直義に加担して戦い、直義の死後は幕府に帰参するが、再び叛いて南朝に降って一時は京都を占領する勢いを示した。その後は直義の養子直冬を助けて戦い山陰地方に大きな勢力を張り、2将軍足利義詮の時代に切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順。時氏は因幡伯耆丹波丹後美作5か国の守護となった。時氏の死後も山名氏は領国を拡大する。惣領を継いだ長男の師義は丹後・伯耆、次男の義理紀伊3男の氏冬は因幡、4男の氏清は丹波・山城和泉5男の時義は美作・但馬備後の守護となった。師義の3男の満幸は新たに播磨の守護職も得ている。全国66か国(正確には68か国だが、1.陸奥・出羽は守護不設置なので除く、2.」扱いなので対馬壱岐を除く、3.狭島・遠島扱いの隠岐とあまりにも領土が狭いため伊勢守護が室町時代を通じて兼任の属領扱いの志摩を除いたため通称全国66か国にしたとの3説あり)のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれた。室町幕府の将軍は守護大名の連合の上に成り立っており、その権力は弱体なものであった。正平24/応安2年(1369)に3代将軍に就任した足利義満は将軍権力の強化を図った。天授5/康暦元年(1379)、康暦の政変により幕府の実権を握っていた管領細川頼之が失脚、斯波義将が管領に就任する。義満は細川氏斯波氏の対立を利用して権力を掌握。直轄軍である奉公衆を増強するなどして着実に将軍の権力を強化した。これに加えて、義満は勢力が強すぎて統制が困難な有力守護大名の弱体化を図る。元中4/嘉慶元年(1387)、幕府創業の功臣であり、美濃尾張、伊勢3か国の守護である土岐頼康が死去した。甥の康行が後を継いだが、義満は土岐氏一族が分裂するように仕向けて挑発して康行を挙兵に追い込み、康応元年/元中6年(1389)に義満は康行討伐の命を下して、翌明徳元年/元中7年(1390)にこれを下した(土岐康行の乱)。康行は領国を全て取り上げられ、康行の弟満貞が尾張を領有、土岐氏の惣領は叔父の頼忠に移ったが、美濃一国の領有しか許されなかった。義満の次の狙いは11か国を領する山名氏であった。山名師義は天授2/永和2年(1376)に死去し、4人の息子義幸氏之義熙、満幸は若年であったため、中継ぎとして末弟の時義が惣領となった。これに対して、氏清とその婿の満幸が不満を示す。元中6/康応元年に時義が死去、惣領と但馬・備後は時義の息子時熙が、伯耆は時義の養子になっていた時熙の義兄弟の氏之に与えられた。しかし、病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸は自分が無視されたとしてこの件でも不満を増大させていった。幕府に氏清、満幸謀反の報が12月19に丹後と河内の代官より伝えられた。幕府重臣らは半信半疑であったが氏清の甥の氏家(因幡守護、氏冬の子)が一族と合流すべく京都を退去するに及んで洛中は大騒ぎになり、重臣達も山名氏の謀反を悟る。12月25、義満は軍評定を開き、重臣の間では和解論も出た。氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んだ義満だが、必勝を確信していたわけではなかった。山名氏の勢力は強大であり、時氏の時代には山名氏の軍勢によって2度も京都を占領されているからである。義満は和解論を退け「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」と述べて決戦を決める。幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく主力5000騎を旧平安京大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機した。山名軍は決戦を12月27と定めて、氏清の軍勢3000騎は堺から、満幸の軍勢2000騎は丹波から京都へ進軍した。丹波路を進む満幸の軍勢は26には内野から三里の峯の堂に布陣する。しかし、氏清は河内守護代遊佐国長に阻まれて到着が遅れてしまい、軍勢の中からは脱落して幕府方に降参する者も出始める。12月29夜、到着が遅れた氏清の軍勢は淀の中島に至り3隊に分かれて京に進撃。満幸の軍勢は2手に分かれて京に攻めかけた。闇夜の進軍のため各隊の連係は乱れがちで各個に京へ突入することになった。12月30早朝、氏清の弟山名義数小林上野守700騎が二条大宮に攻め寄せて、大内義弘300騎と激突して合戦が始まった。大内勢は下馬して雨のようにを射かけた。乱戦となり劣勢となった山名義数、小林上野守は討ち死に覚悟で突撃。義弘は上野守と一騎討ちをして負傷しながらもこれを討ち取った。義数も討死、山名軍は緒戦で敗れてしまう。義満は義弘の武勇を賞して太刀を与えた。次いで、満幸の軍勢2000騎が内野へ突入した。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、畠山基国京極高詮3000騎で激戦となるが、義満の馬廻5000騎が投入されて勝敗は決した。敗れた満幸は丹波へ落ちた。氏清の軍勢2000騎は二手に分かれて突入。大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突する。氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退。幕府に帰参していた山名時熙が50騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜いた。劣勢になった大内、赤松は義満に援軍を要請、一色氏斯波義重の軍勢が加勢して幕府軍は盛り返す。氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬するに及び潰走した。氏清は落ち延びようとするが、一色勢に取り囲まれて一色詮範満範父子に討ち取られた。こうして、1日の合戦で山名氏は敗れ去った。幕府軍の死者は260人余、山名軍の死者は879人であった。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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