『歴史の時々変遷』(全361回)111”観応の擾乱“ 「観応の擾乱」は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。

観応2『歴史の時変遷』(全361回)111”観応の擾乱“

「観応の擾乱」は、南北朝時代1349から1352にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。「足利直義派と高師直派の対立」、初期の足利政権においては、足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事高師直が軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた。なお、尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる。訴訟を担う直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かった。直義は鎌倉時代執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向し、裁定機能の一部を朝廷に残したため、有力御家人とともに公家・寺社の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。これに対し、幕府に与した武士の多くは天皇家や公家の権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、師直はこのような武士団を統率して南朝方との戦いを遂行していた。それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立するようになっていく。また、師直は将軍尊氏の執事として将軍の権威強化に努めたが、それは師直自身の発言力の強化にもつながるものであった。この対立は師直と直義のような次元では政治思想的な対立という面もあったが、守護以下の諸武士にあっては対立する武士が師直方につけば自分は直義方につくといった具合で、つまるところ戦乱によって発生した領地や権益を巡る争いで師直、直義、尊氏、直冬、そして南朝といった旗頭になる存在を求めただけという傾向が概して強く、今川範国細川顕氏の例に見られるように、自己の都合でもって短期間の内に所属する党派を転々とすることもしばしばであった。更に両者の対立の背景には足利尊氏の家督継承の経緯と外戚上杉氏の問題もあったとされる。元々、尊氏の父貞氏は、嫡男であった高義に家督を譲って家宰の高師重(師直の父)に補佐させていたが、高義の死によって改めて異母弟の尊氏が後継者になった。ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏を政務の中心として置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的であった。特に延元3/暦応元年(1338)に明確な理由がないまま上杉重能が出仕停止の処分を受け、同じく上杉憲顕が関東執事(後の関東管領)を高師冬(師直の従兄弟)に交替させられ、重能の代わりに上洛を命じられた事が、上杉氏及び直義の高氏への反感を高めたと考えられている。南北朝時代の初期に楠木正成北畠顕家新田義貞ら南朝方の武将が相次いで敗死し、高師直師泰兄弟らの戦功は目覚ましかったが、延元4/暦応2年(1339)に後醍醐天皇が没して後の畿内は比較的平穏な状態となったため師直は活躍の場を失い、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる。しかし、師直が率いていた武士たちが秩序を軽んじて狼藉する事件が多く発生し、興国2/暦応4年(1341)に塩冶高貞が直義派の桃井直常山名時氏らに討たれ、翌興国3/康永元年(1342)に土岐頼遠が北朝光厳上皇に狼藉を働いた罪により直義の裁断で斬首されるなどした。こうした裁定に不満をもつ武士たちは師直を立て、直義はなおも権威と制度の安寧にこだわった。両派の間はますます険悪になりつつあった。正平6/観応2年(13511月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺合戦及び2月17摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北する。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てて直義との和議を図った。この交渉において尊氏は表向きは師直の出家(助命)を条件として挙げていた。しかしながら実際には氏直には直義に"師直の殺害を許可する"旨を伝えるようにという密命を伝えていた。2月20、和議は成立するも、果して2月26、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(憲顕の息子、師直に殺害された上杉重能の養子で、仇討ちという形になる)の軍勢により、摂津武庫川(兵庫県伊丹市)で一族と共に謀殺される。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。尊氏は、近江佐々木道誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する体制を整えた。事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸信濃を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇には比叡山に逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

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