『歴史の時々変遷』(全361回)109”貞治の変“ 「貞治の変」日本の南北朝時代後期(室町時代初期)の貞治5年(1366年)、室町幕府の執事(後の管領)

貞治1『歴史の時変遷』(全361回)109”貞治の変“

貞治の変」日本南北朝時代後期(室町時代初期)の貞治5年(1366)、室町幕府執事(後の管領)であった斯波義将及びその父で2将軍足利義詮側近の有力守護大名であった斯波高経が失脚した事件。「貞治の政変」とも。康安元年(1361)に執事細川清氏が失脚(康安の政変)、南朝へ降伏した後、斯波高経は2代将軍足利義詮の信任を受け、貞治元年(1362)には4男の義将を執事に推薦した。これに対し細川清氏を失脚させた有力守護佐々木道誉(京極高氏)は、婿である高経の3氏頼を推薦していたが果たせず、高経に恨みを懐いたと『太平記』は記す。斯波高経はさらに5男の義種小侍所、孫の義高(次男氏経の子)を引付頭人につけ、貞治4年(1365)には義種を侍所に推し、幕府中枢の要職を一族で集中させていった。こういった斯波氏の動きに対し、道誉ら有力守護らは反撥を強め、正平18/貞治2年(13637月にはこれら反対勢力が高経を討とうと集結しているという噂が立つほどであった。同年の南朝軍の摂津侵入を阻止できなかったことから高経が道誉の摂津守護職を解いたためという。翌貞治3年(1364)には三条坊門に幕府の御所が造営され、各守護に普請が割り当てられたが、赤松則祐の工期が遅れたとして高経が則祐の所領を没収したため、赤松氏の恨みを買った。また五条大橋の造営奉行となった佐々木道誉が、造営費捻出のため京都の家々から棟別銭を徴収していたが、高経は造営が遅いとして自らの出費で数日の内に架橋してしまったため、道誉は面目を潰された格好となった。その報復として道誉は、高経邸へ将軍義詮を招き宴を開く日に、わざと大原野で壮麗な花の宴を開いて当てつけたが、それに対し高経は道誉が二十分の一税を滞納していたとの理由で摂津多田荘を没収するなど、道誉らと高経の対立は抜き差しならぬものとなっていた。貞治58月8将軍足利義詮は突如、斯波高経の陰謀が露顕したと称して、軍勢を三条坊門の幕府に集結させ、高経に対し「急ぎ(守護国へ)下向すべし。さもなくば治罰する」と命じる使者を送った。抵抗できないと悟った高経は翌9日朝には自邸を焼き払い、子息の義将・義種ら一族・被官を伴って越前へと落ち延びて行った。高経放逐の表向きの理由は、興福寺衆徒が高経の被官である朝倉高景による興福寺領越前河口荘への押妨を高経が取り締まらず放置していたため、朝廷へ嗷訴したためと思われる。折から春日大社神木春日神木)が京都にもたらされていたため、高経が追放されたのは神罰であるとも言われた。しかし、実際には上記のような京極氏・赤松氏らの高経への不満が将軍義詮を決断させたものと考えられる。『太平記』では、必死に弁明する高経に対し、義詮は涙を浮かべながら、今の世は将軍の自分でも思い通りにならないので下国してくれと頼んだという。観応の擾乱において一時的に南朝へ下った足利直義足利尊氏、義詮の側近から南朝へ転じた仁木義長・細川清氏のようなそれまでの北朝内部の争乱の没落側と異なり、斯波一族の場合は南朝方へ走ることはなく、おとなしく守護国の越前へと下ったが、これは足利義詮政権の下で、正平18/貞治2年に大内弘世山名時氏ら有力守護が南朝から北朝(幕府)へ帰順するなど、この時期には北朝の優位がほぼ確定し、全国的にも南北朝の動乱期が収まりつつあることを示すものであった。高経らが越前に入ると、幕府は京極高秀(道誉の子)、赤松光範山名氏冬土岐頼康畠山義深らによる大軍を編成し、高経の籠もる杣山城及び義将の拠る栗屋城を包囲した。翌正平22/貞治6年(13677月に高経は城内で病没する。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
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