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『歴史の時々変遷』(全361回)108”藤島の戦“「藤島の戦」延元3|暦応1(1338)越前国吉田郡藤島(現,福井市)付近で行われた,南朝方新田義貞軍と足利方斯波高経

藤島1『歴史の時変遷』(全361回)108”藤島の戦“「藤島の戦」延元3|暦応1(1338)越前国吉田郡藤島(現,福井市)付近で行われた,南朝方新田義貞軍と足利方斯波高経(しばたかつね)軍との戦闘。この戦いで義貞は討死する。前年3月の同国金崎城陥落に先立って同城を脱出した義貞は,同国国人瓜生保(うりゆうたもつ)の居城杣山(そまやま)城に拠って,同国足羽(あすわ)城に拠る越前守護斯波高経に対抗した。《太平記》によると,義貞は同国平泉寺(へいせんじ)衆徒の過半や加賀国人多数を味方にして高経軍を攻め,この年2月同国府中(武生市)を占領した。燈明寺畷新田義貞戦没伝説地は、福井県福井市新田塚町に位置する古戦場である。新田義貞の戦没地であるという伝承に基づき、大正13年(1924)12月9に国の史跡に指定された。鎌倉幕府を倒す大功を立てた新田義貞は後醍醐天皇に与し、湊川の戦で京を追われた後北陸道方面に退いていたが、足利尊氏方の圧迫を受けていた。1338、義貞は勢いを盛り返し、足利方が籠もる越前の藤島城を攻める味方を督戦するため、わずか50余騎の手勢を従えて藤島城へ向かうが、燈明寺畷(現・福井県福井市新田塚町)で足利方と遭遇し、乱戦の中で戦死した(藤島の戦い)。江戸時代1656、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然にを掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がこれを目にし、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定した。その4年後の1660には、福井藩主の松平光通が兜の発見された場所に「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建て、以後この地は「新田塚」と呼ばれるようになった。明治維新後の明治3年(1870)、新田塚の近くに新田義貞を祀る祠堂が建てられ、1876には藤島神社と号した。義貞着用品とされた兜は松平家より藤島神社へ献納され、1900古社寺保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財)に指定された。また、新田塚の古戦場は1924年に国の史跡に指定された。現在藤島神社が所蔵し、義貞の着料とされている兜鉢については、日本甲冑の研究者である山上八郎らにより、鉢の形状や装飾技法などからして、実際は南北朝時代の作品ではなく、それよりも下った戦国時代相模後北条氏に抱えられていた明珍系甲冑師が製作した「小田原鉢」と呼ばれる兜であると鑑定されている。また、兜鉢には土中に埋もれた形跡すらないため、山上は、当初はこの兜鉢と義貞伝説は無関係であったのが、松平家による奉納以降、両者が混合されて現在に至ったと推測しているが[2]、兜がこの地より掘り出されたということ自体に関しては肯定的な見解を見せている。というのは、江戸時代の延宝年間に、福井で活動していた長曽根派の甲冑師が製作した兜の中に「源義貞兜之模」の銘が刻まれたものが存在するため、兜の発掘伝承には裏付けが一応あるからである。ただし、その写しの兜の形状も、室町時代末期を待たないと現れない形兜であることから、これも義貞の活躍した時期に合致しないものである。山上は甲冑の時代変遷を踏まえ、実際に発掘されたと考えられるその兜について、天正年間の越前一向一揆の戦闘に際して使用されたものが地中に埋もれた後、江戸期に再び見出されたものと考察し、この兜が発掘時に新田義貞の所用とされ、同地が義貞最期の地に定められたことに対して「甚だ非科学的な扱い」と論じ、義貞の戦没地を伝説から切り離して考える必要があると主張している。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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