史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)107”石津の戦“ 「石津の戦い」南北朝時代の延元3年/暦応元年(1338)5月22日に和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯

石津6『歴史の時変遷』(全361回)107”石津の戦“

「石津の戦い」南北朝時代延元3/暦応元年(1338)5月22和泉国堺浦石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方の北畠顕家北朝方の高師直が戦った合戦石津合戦堺浦合戦堺浜合戦などの異名がある。延元元年/建武3年(1336)暮れに、足利尊氏に対抗するために京都を脱出して吉野に逃れた後醍醐天皇は、陸奥国多賀城にいる北畠顕家に対して義良親王(後の後村上天皇)を奉じて上洛して尊氏を討つように命じた。だが、顕家に反抗する北朝方の領主に攻められて南陸奥の南朝方拠点である霊山城に追われ、ようやく北朝方の抵抗を排して10万騎を率いて霊山城より南下を開始したのは翌年の8月であった。だが、騎馬隊を巧みに用いた戦略が功を奏し、その年の12月25には斯波家長を攻め滅ぼして鎌倉を占領した。その後も快進撃は続き、延元3/暦応元年に入ると箱根を突破して美濃国青野原の戦いで北朝方を破った。しかし、北朝方主力が近江国から美濃に入ったことを知った顕家は伊勢国に逃れて軍勢の立て直しを図る。顕家は2月21大和国を占領するが、7日後に般若坂の戦いで北朝方桃井直に敗れて敗走する。このため青野ヶ原の戦いに伊勢から駆けつけていた顕家の弟、北畠顕信の軍勢は男山に入り、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った後、河内国から和泉国に転戦して戦力再建を図り、3月に天王寺に軍を集結した兵を分け、顕信やその将兵を救援するため差し向けた。西上してきた南朝軍の軍勢の旗印といえる親王もすでに吉野に遷し、兵を分け寡勢となっていた顕家の軍は、5月6には石津・堺浦を焼討にして、細川顕氏日根野盛治ら現地の北朝方勢力と尚も交戦を続けた。これに対して尊氏の命で兵1万8千を率い、男山の顕信に備えていた師直は、自ら兵を分け顕家討伐に向かい、5月16に天王寺から堺浦に向かって出撃、顕家の軍兵を待ち受けていた。そして、522日堺浦で両軍は激突、顕家軍は善戦したものの寡勢に加え、長征の疲労や北朝方についた瀬戸内海水軍の支援攻撃まで受けて死地に立たされ、顕家は兵200とともに石津で北朝方に包囲されて決死の戦いを続け吉野に向かうが、奮戦中に落馬。ついに顕家は享年20という若さで討ち取られ、顕家の他、名和義高南部師行らの西上軍の有力武将も戦死、南朝軍の主力は壊滅した。これによって、南朝は大打撃を受ける一方、北朝方の室町幕府は中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦いを進めていくことになった。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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