『歴史の時々変遷』(全361回)99”箱根・竹ノ下の戦“ 「箱根・竹ノ下の戦い」南北朝時代の建武2年(1336)に、足利尊氏勢と新田義貞勢

 箱根5『歴史の時変遷』(全361回)99”箱根・竹ノ下の戦“

「箱根・竹ノ下の戦い」南北朝時代建武2年(1336)に、足利尊氏勢と新田義貞勢の間で行われた合戦。後醍醐天皇建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権は崩壊した。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。1333鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実から乖離した政策の数々に武士は不満を募らせた。1335年発覚した西園寺公宗北条泰家の陰謀は失敗に終わったが、これをきっかけに全国の旧北条氏所領で北条残党の蜂起が相次ぐ。特に7信濃諏訪氏の支援のもと蜂起した北条時行は、各地の反建武政権勢力を吸収し、足利直義を追い出し、鎌倉を占領する勢いを見せた。(中先代の乱)これに対し、足利尊氏は時行を討つために自分を派遣するように後醍醐天皇に再三要請するが、尊氏が自立することを怖れた後醍醐はそれを許可しなかった。 しかし尊氏は無断で関東に出兵する。後醍醐は追認で尊氏を征東将軍に任じた、結局、時行の反乱は鎮圧された。戦後、尊氏は対立関係にあった新田義貞の所領を勝手に没収し、建武政権では恩賞方が行う恩賞として分配するなど自立の意思を示した。後醍醐は再三帰洛命令を出すが尊氏は無視し、義貞を非難する文書を送り返すだけであった。義貞は反論の文書を提出し、審議の結果義貞の訴えを認め、尊氏を討伐することに決定し、義貞に宣旨を下した。11月、義貞は尊良親王を奉じ、軍を率い東海道を下った。尊氏追討軍には多数の公家も参加している。朝敵となることを恥じた尊氏が出家するなど足利側の士気が上がらなかったため、尊氏軍は直義が中心となり作戦行動に出る。義貞は三河矢作川遠江鷺坂駿河手越川原で迎撃に出た直義軍を打ち破り、伊豆国府(三島)を占領し、鎌倉へ着々と軍を進めた。義貞が箱根に迫ったとの報に接し、一時出家していた尊氏が直義の説得に応じ、戦線に復帰する。義貞は三島で軍を集結させると軍を二方面に分け、自らは搦め手軍を率いて箱根峠に進み、大手軍は実弟脇屋義助を大将に足柄峠へ進軍させる。尊氏軍は直義が箱根に布陣し、尊氏は竹ノ下前面の足柄峠に布陣する。1211日両軍は激突する。箱根方面では義貞軍が直義軍を押し気味に戦局が展開する。尊氏と義助の主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となった。尊氏の参陣で志気が上がる尊氏軍が押し気味に戦局が展開し、さらに翌日になって大友貞載塩冶高貞が尊氏軍に寝返ったため、義助軍は総崩れとなり敗走する。その報を受けた義貞は、箱根口の戦いでは大勝しながらも、退路を断たれるおそれが出たため軍を撤退させる。これを見て近江守護の佐々木道誉も尊氏軍に寝返り義貞軍も総崩れとなった。このときに尊良親王の近侍であった中将二条為冬が戦死した。13日には伊豆国府を尊氏軍が奪回し、義貞軍は東海道を総崩れで敗走した。天竜川に架かる浮き橋を義貞が遅れてくる味方のために残したと『梅松論』には書かれているが、『平記』には浮き橋を斬って退却したと逆のことが書かれている。★歴史が綴る、伝統文化を、未来に語る継ぐ。

 

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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