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『歴史歳時記豆知識』61・流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑

 流罪1『歴史歳時記豆知識』61・流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境やに送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地がの場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。現代の先進民主主義国において流罪は絶対的不定期刑に該当するとして、罪刑法定主義と言う近代刑法原則の派生原理から禁止されている。歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた[1]。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝後醍醐天皇ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。日本では死罪に次いで重い刑であったが、現在は廃止されている。古代においては神の怒りに触れたとされた者や物をに放逐して朽ち果てるに任せる事が行われていた。神代に追放となった素戔嗚尊などを除き、記録に残る最初の流刑は允恭天皇時代に兄妹で情を通じたとして伊予国に流された軽大娘皇女木梨軽皇子である。一般的に古代の流刑は特権階級に対する刑罰であり、政治的な意味合いが強かった。[2]律令における五刑1つであり、においては罪の重さに応じて「二千里」、「二千五百里」、「三千里」の刑(当時の唐の1里は約560m)が課せられていたが、日本の国土は唐の様に広大ではなかった為に畿内からの距離によって「近流(こんる/ごんる)」、「中流(ちゅうる)」、「遠流(おんる)」の3等級が存在した。927年に成立した延喜式によれば、追放される距離は近流300里、中流560里、遠流1500里とされている。実際には、罪状や身分、流刑地の状況などにより距離と配流先は変更された[3]。受刑者は、居住地から遠隔地への強制移住と、1年間の徒罪の服役が課された(遠流対象者で特に悪質なものに対しては3年間の徒役が課された)。また妻妾は連座して強制的に同行させられるが、他の家族は希望者のみが送られた。配所への護送は季節ごとに1回行われた。配所到着後は現地の戸籍に編入され、1年間の徒罪服役後に口分田が与えられて、現地の良民として租税を課された。配所到着後は現地の住民とされた為に原則的に恩赦等による帰国もなかった。尤も、後年には流罪も含めた全ての罪人が赦免される「非常赦」がしばしば行われて帰国が許されている事例も多く存在している(『平家物語』における鹿ケ谷の陰謀鬼界ヶ島に流された藤原成経平康頼の例など)。また、女性への適用はされずに代わりに杖罪と徒罪の両方を課された。平安時代嵯峨天治世期に死刑が停止されたともいわれ、死刑停止時代の最高刑は流罪が主になっている。保元の乱から正中の変に至る朝廷と武士が関連する争乱では、敗れた側の天皇上皇と一部の公家や武士が佐渡隠岐伊豆大島などに配流となった。中世以後の統一権力の力の弱い分権的な社会では流罪の替わりに追放(自己の地域からの排除)が用いられた。なお、室町時代は権力闘争に敗れた公家や武者などが流刑を受けた際には落ち武者狩りの対象となって命を落とした記録が頻出していて、流刑を事実上の死刑とみなした当時の日記も残っている(「看聞日記」永享六年五月十六日条、ほか多数)。中には、流刑を言い渡した足利将軍の手配の元、護送している人物によって殺害されてしまったケースすらあった。これらは、没落した人間は庇護する人物がいないために「法の保護」の対象から外れてしまい、略奪の対象となるのがごく当たり前だったという当時の一般常識がその根柢にあると考えられている。江戸時代には、追放よりも重い刑と規定されて「遠島」(えんとう)と称されており、江戸幕府では東日本天領の流刑者を主に八丈島等の伊豆七島佐渡島に流した(ロシア蝦夷地への進出を図った19世紀には蝦夷地への流刑先変更が検討されたが、松前藩の反対で中止されている)。西国では天草諸島五島列島などが流刑地となった。幕府はこのほか、改易した大名お家騒動で処罰されたその重臣らを遠方の各藩預とする処分をしばしば下した。南西諸島への遠島も行われていた。古くは平家物語に現れる鬼界ヶ島の例であり、江戸時代には薩摩藩政治犯を支配下に入れた琉球へ盛んに送っている(主に奄美群島沖縄諸島への例もある)。また少数ではあるが、江戸幕府町人沖縄本島へ送っている。上記の薩摩藩を含めて、一部の藩は領内の島や山奥を流刑地にしていた。仙台藩田代島網地島江島加賀藩越中五箇山能登島尾張藩篠島岡山藩日生諸島・釜島、福山藩六島長州藩相島見島松山藩生名島二神島土佐藩白滝福岡藩玄界島小呂島姫島佐伯藩深島薩摩藩沖永良部島などである。赦免は刑期満了の他に、本国で改めて投獄・処刑する為にもなされる。 日本では主に本土周辺のに送られるが、欧米では植民地にした海外領土(#日本国外)に送られる事もあり、国内流刑と国外流刑は刑として区別される。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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