『戦国時代の群像』19(全192回) 「松平 清康」(1511~1535)戦国時代の武将。三河松平氏

 清康3『戦国時代の群像』19(全192回)

「松平 清康」(1511~1535)戦国時代武将三河松平氏(安祥松平家)の第7代当主。第6代当主・松平信忠の子。三河国安祥城城主および岡崎城主。安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。徳川家康の祖父にあたる。永正89月71511)、第6代当主・松平信忠嫡男として生まれる。大永3年(1523)に隠居の祖父・道閲(長親)や一門衆が父・信忠を隠居させて、子である竹千代(清康)に家督を継承させた。三河吉良氏吉良持清偏諱を受けて清孝(きよたか、のち清康)と名乗る。大永5年(1525)に足助城鈴木重政を攻めてこれを降伏させる。大永6年(1526)、または大永4年(1524)、岡崎松平家山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、現在地の龍頭山に新岡崎城に移転し、岡崎に松平氏の拠点を移した。岡崎では城下町を作り、岡崎五人衆・代官・小代官体制を整備。また、松平氏菩提寺大樹寺勅願寺化や修築・多宝塔の新築、松平郷からの勧請を受けての六所神社創建、龍海院の創建等を行った。このころ清和源氏のひとつ・新田氏一門である得川氏の庶流・世良田姓を称し、通称として世良田次郎三郎と名乗ったという。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓を行うことにもつながっているという(この経緯については世良田氏の項も参照)。清康は更に、東西に軍を進めて三河国統一を目指し勢力を広げる。享禄2年(1529)、尾島城(小島城:西尾市所在)を攻め獲る。その一方で、同年528日に東三河にも進出して三河牧野氏今橋城(後の吉田城)を攻め落とした。清康は更に吉田城の南方・渥美郡田原に進軍。戸田氏は戦わずに降服したので清康は吉田城に兵を戻して10日間在城。この間に北方・設楽郡山家三方衆田峯城菅沼氏及び長篠城菅沼氏と亀山城奥平氏宝飯郡牛久保の牧野氏等の東三河国人衆の多くが従属を申し出た。ただし三河の東端八名郡に在った宇利城熊谷氏だけが服属を拒んだためこれを包囲し、11月4に攻め落とした。ここに三河国統一を成し遂げた。なお、一説によれば宇利城攻め以後、桜井松平家の叔父・信定との不仲を悪化させたともいわれる。その理由に挙げられるのが、宇利城攻略戦において、大手門を攻める福釜松平家の叔父・親盛を失った際に、支援の遅れた信定を清康が罵倒したという。清康自身はその場限りの叱責であったのだろうが、信定は遺恨を抱き続け宗家簒奪の機を窺う決意を固めたものと考えられている。享禄3年(1530)には尾張国へ再出兵、岩崎城 を落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城を落とし品野郷(瀬戸市品野町)を奪った。そして三河統一の勢いに乗った清康は、斎藤道三と織田を挟撃するため、1万余りの大軍で尾張に進軍。天文4年(153512月、清康は尾張に侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めた。この守山の陣の最中の12月5、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死した。これを「森山崩(守山崩れとも)」という。享年25。これは松平信定の策略であったといわれている。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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