歴史の時々変遷』(全361回)92”分倍河原の戦い“ 「分倍河原の戦い」鎌倉時代後期の元弘3年(1333)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原

 『分倍河原古戦場2歴史の時変遷』(全361回)92”分倍河原の戦い“

「分倍河原の戦い」鎌倉時代後期の元弘3年(13335月155月16に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である元弘3年(13335月8新田義貞上野国生品明神鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。この旗揚げ時の新田軍は、義貞以下一族の脇屋義助大舘宗氏堀口貞満岩松経家里見義胤江田行義桃井尚義ら総勢でもたった150騎ばかりであったと謂われる。しかしながら、南行して利根川に至ったところで越後国の新田党(里美、鳥山、田中、大井田、羽川の各家)や、甲斐信濃の源氏一派が合流し、軍勢は7,000騎にまで及んだ。5月9利根川を越えたところで足利高氏(後に尊氏)の嫡子・千寿王(後の足利義詮)が紀五左衛門に伴われて合流、さらに外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより、この後上野、下野上総常陸武蔵の鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、新田軍は207千まで膨れ上がったとも言われる。さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11小手指原の戦い5月12久米川の戦いで、相次いで撃破。幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、分倍河原(現在の東京都府中市)に撤退した。鎌倉幕府は、小手指原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の軍勢を派遣。分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した。515日、2日間の休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始。だが、援軍を得て士気の高まっていた幕府軍が、逆に新田軍を撃破。新田軍は堀金(狭山市堀兼)周辺まで退却を余儀なくされた。この敗走の際、武蔵国分寺(東京都国分寺市)が焼失したといわれる。翌516日新田軍は、援軍に駆け付けた三浦義勝の献策により、未明に幕府軍を急襲。幕府軍は敗走し、関戸(東京都多摩市)にて壊滅的打撃を被った。北条泰家は、家臣の横溝八郎の奮戦によって一命を取り止め、鎌倉に逃走した。形勢が入れ替わった理由については、幕府軍が初日の勝利に奢って油断していたという説もあるが、足利尊氏による六波羅探題攻略の報が関東に到達しており幕府軍増援部隊の寝返りがあったのではないかという説もある。分倍河原の戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。幕府軍は鎌倉に籠もり7つの切通しを固める。新田軍は要害の地鎌倉を攻めあぐんだが、稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。倒幕運動最後の合戦(東勝寺合戦)が行われた。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

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