『歴史の時々変遷』(全361回)85”霜月騒動“ 「霜月騒動」鎌倉時代後期の弘安8年11月17日(1285)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱

霜月3『歴史の時変遷』(全361回)85”霜月騒動“

「霜月騒動」鎌倉時代後期の弘安811171285)に鎌倉で起こった鎌倉幕府政変8執権北条時宗の死後、有力御家人安達泰盛と、内管領平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦安達泰盛の乱秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。安達泰盛は幕府創設以来の有力御家人安達氏の一族で、北条氏得宗家の外戚として執権北条時宗を支え、越訴頭人御恩奉行などの重職を歴任した幕政の中心人物であった。平頼綱は時宗の嫡子貞時乳母父で、北条氏得宗家の執事内管領であり、得宗権力を具現する立場にあった。幕府では外様御家人を支持勢力とする泰盛と、頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が拮抗していた。弘安7年(1284)に両者の調停役となっていた執権時宗が死去し、14歳の貞時9代執権となると、蒙古襲来以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って両者の対立は激化する。貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令である「新御式目」を発布した。将軍を戴く御家人制度の立て直しを図る泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威の発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので、得宗被官である頼綱らに利害が及ぶものであった。弘安8年(1285114日と14日に頼綱は日光山別当源恵に依頼し、泰盛討伐の祈祷を行った。合戦の状況を語る唯一の一次史料である霜月騒動覚聞書によると、1117日の午前中、松谷の別荘に居た泰盛は、周囲が騒がしくなった事に気付き、昼の12時頃塔ノ辻にある出仕用の屋形に出かけ、貞時邸に出仕したところを御内人の手勢に阻まれ、死者30名、負傷者10名に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所が延焼、午後4時頃に合戦は安達方の敗北となり、泰盛、嫡子宗景、弟長景以下一族は自害・討ち死にして果てた。安達時景は飯山に逃亡したが殺害された。安達一族500名余りが自害し、騒動は全国に波及して各地で泰盛派が追撃を受け、自害に及んだ。安達氏の基盤である上野国武蔵国の御家人の被害は多く、武蔵では武藤少卿左衛門、遠江国では安達宗顕、常陸国では安達重景、信濃国では伴野彦二郎盛時らが自害した。九州では泰盛の子安達盛宗岩門合戦で敗死した。これだけの人数が一気に討ち死に、自害に追い込まれたのは用意周到な計画の元で時間を定めて一斉に襲撃したためと見られる。『保暦間記』によると、頼綱は泰盛の子宗景源頼朝落胤であると称して源氏に改姓し、謀反を起こして将軍になろうとしている、と貞時に讒言したという。泰盛は将軍に伝えられる「髭切太刀」を京都のある霊社から探し出して法華堂の御逗子に納めていた。髭切りの太刀は霜月騒動で行方不明になったのち、125日に探し出され、貞時によって「赤字の錦袋」(平氏を称する北条氏は赤旗)に包まれて再び法華堂に奉納された。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
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著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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