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『歴史歳時記豆知識』55・摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)

摂家1摂家2『歴史歳時記豆知識』55・摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流公家家格の頂点に立った5家(近衛家九条家二条家一条家司家)のこと。大納言右大臣左大臣を経て摂政関白太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。原北家良房が人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承されたが、のちに道長嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流松殿流に分立。さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、基房の弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。この3流のうち、松殿流の松殿家松殿師家が摂政になって以降、結果的には摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった。その結果、摂関家として近衛・九条の両流が残り、近衛流は殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握した。九条流天皇外戚としての血縁関係と、自家からも将軍を輩出するほどの鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させ、反対に藤原師長頼長流)や松殿忠房(師家の弟)も摂関就任の可能性があったにも関わらず就任することが出来ず摂関家としての地位を確立できなかったことなど、流動的な状況が長く続いた。のち、近衛流摂関家からは嫡流近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実良実により、それぞれ一条家および九条家二条家が成立した。建長4年(1252)に鷹司兼平が関白に就任、文永10年(1273)には政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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