史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時変変遷』(全361回)83”二月騒動“ 「二月騒動」鎌倉時代中期の文永9年(1272)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛

 二月5『歴史の時変変遷』(全361回)83”二月騒動“

「二月騒動」鎌倉時代中期の文永9年(12722月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8執権北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流名越時章教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。文永5年(1268)正月、高麗の使節が大宰府を来訪、蒙古()への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月、蒙古襲来の危機を前にして鎌倉幕府における権力の一元化を図るため、北条氏嫡流である得宗家の北条時宗が18歳で8代執権に就任した。時宗の庶兄である北条時輔は、文永元年(1264)に時宗が14歳で連署に就任した際、京の六波羅探題南方へ出向していた。南方の上位である北方は、得宗支援者の北条時茂であったが、文永7年(1270)に死去し、後任がないまま六波羅探題は時輔の影響を強くしていた。一方、名越氏は北条一門でも九州に多くの守護職を持ち、嫡流の得宗家に次ぐ勢力があった。時宗の父で5代執権北条時頼の時代に、長兄の名越光時らが宮騒動で処罰されており、弟の名越時章教時は連座を逃れたが、教時は前将軍宗尊親王の側近であり、依然として反得宗の傾向があった。時宗の執権就任から4年後の文永9年(127227日、鎌倉で騒動があり、2月11名越時章教時兄弟が得宗被官である四方田時綱御内人によって誅殺され、前将軍宗尊親王の側近であった中御門実隆が召し禁じられた。4日後の2月15、京において前年12月に六波羅探題北方に就任していた北条義宗が、鎌倉からの早馬を受け、同南方の北条時輔を討伐した。多くの人々が戦闘で死に、また事件に連座して六波羅探題にあった安達泰盛の庶兄安達頼景が所領を没収され、事件とのかかわりは明確には分かっていないが、同年に渋川義春世良田頼氏は佐渡へ流罪、前将軍宗尊親王は出家した。なお、北条時輔は逐電したとの説もある。間もなく、名越時章に異心はなく誤殺であったとされ、その結果、討手である御内人5人は責任を問われて92日、斬首された。時章の子公時は所領を安堵された。教時への討手には罰も賞もなく、人々の笑いものになったという。この事件に関して出された211日付の二通の関東御教書によると、討伐の主体は執権時宗・連署北条政村であり、名越兄弟は幕命として前もって準備された上で、「謀反」として討伐されている。誤殺された時章が持っていた九州の筑後大隅肥後の守護職は安達泰盛・大友頼泰に移った。蒙古襲来が現実化すれば、九州で現地御家人の指揮を執る立場となって鎌倉での影響力を強くする可能性のあった名越家の排除によって、時宗による九州異国警固態勢が強化される結果となった。また京においては、時輔・前将軍宗尊親王の名を借りた反得宗の動きを封殺し、反抗勢力を一掃した事で、得宗独裁体制が強化された。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

 

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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