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『歴史の時々変遷』(全361回)82“宝治合戦” 「宝治合戦」鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立

宝治1『歴史の時変遷』(全361回)82“宝治合戦”

「宝治合戦」鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(12476月5鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、吾妻鏡しか現存しない。仁治3年(1242)、合議制によって幕府を主導し、有力御家人の間を調整してきた3執権北条泰時が死去し、その嫡孫で19歳の北条経時が跡を継いだ。北条得宗家主導の政治に不満を募らせていた御家人達は、泰時時代には幼少だった将軍藤原頼経が成人すると、その元に集って北条執権体制への反対勢力を形成していた。鎌倉幕閣は北条執権派と将軍派に分裂して対立を続け、寛元4年(1246)、経時の病死と同時に宮騒動が勃発し、急遽5代執権となった弟の北条時頼により前将軍頼経が京都へ送還され、将軍派であった御家人達が処分された。この騒動の際、三浦氏は将軍派の背後にありながらも動かず、処分を受けなかったが、頼経の送還は大きな打撃であった。三浦氏は鎌倉の地元相模国を本拠とする幕府創設以来の大族で、有力御家人が次々と排斥されていった中で生き残った北条氏に比肩しうる最大勢力であり、北条得宗家とは縁戚関係を結びながらも、常に緊張関係にあった。三浦氏当主三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったが、弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、前将軍頼経の京都送還に同行し、頼経の前で「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、その様子は北条時頼に報告されていた。執権北条時頼は宮騒動によって寛元4年(12467月に前将軍頼経を京都に送還した後、10月に頼経の父で将軍派の背後にいた九条道家関東申次職を罷免し、代わって西園寺実氏を任命する。道家の後ろ盾を失った将軍復権派はもはや実力行使しか手は残されておらず、三浦光村は鎌倉に帰着すると反北条の勢力を集結すべく動いた。三浦方には妹婿の毛利季光関政泰春日部実景宇都宮時綱ら縁戚と将軍派の御家人達が集まった。小鹿島公業の子小鹿島公苗は、一番槍の勲功を挙げようと前日から三浦氏の屋敷の庭の藪の中に郎党二人と共に潜伏しており、合戦が始まるや否や飛び出して奇襲を仕掛けたが、衆寡敵せず反撃を受け、郎党一人を失い遁走した。合戦に引きずり込まれる形になった時頼は、北条実時に将軍御所の守護を命じ、弟の北条時定を大将軍に任じて三浦泰村の討伐を命じた。三浦舘には鎌倉にいた三浦一族、前将軍頼経を慕う御家人達が集まり、三浦半島からも一族が駆けつけた。三浦光村は80騎を率いて永福寺に籠もり、鎌倉と得宗家の本拠地山内荘を分断した。三浦泰村館への攻撃は明け方に始められたが、昼になっても北条勢は攻めあぐねていた。風向きが変わったところで周辺の舘に火がかけられ、燻り出された泰村達は舘を出て右大将家(源頼朝)法華堂に向かった。光村は泰村に使者を使わして要害の地である永福寺での合流を勧めたが、泰村はすでに戦う意志はなく、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして光村に法華堂へ来るように命じた。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かった。法華堂には三浦一族とその縁戚、将軍派であった御家人達500余名が集まっていた。その内260名は将軍御所に出仕する資格を持った番衆であったという。法華堂の門外で郎従達が防戦している間、出家して西阿と称していた毛利季光が念仏を唱え、三浦光村が調声の任を努めた。源頼朝の御影の前で一同はしばし懐旧の談を交わした。光村は「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだ。光村は太刀を抜くと自分の顔を削って「この顔は我とわかるか?」と訪ね、「いまだに光村殿と見ゆ」と返事を聞くとさらに自分の顔を切り刻み、あまりの事に泰村は「汝の血で故頼朝公の御影を汚し奉る。不忠至極である」と諫めた。血気の光村に対し、最期まで穏便であった泰村は「当家数代の功を思えば、累代は赦されるだろう。我らは義明以来四代の家督なり。北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、父義村は他の一族の多くを滅ぼし、罪業を負った。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせたという。三浦一族と与党500余名はそれぞれに自刃して果てた。上総国にあった泰村の妹婿千葉秀胤は追討軍と戦って敗れ、一族と共に自害した。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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