史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)80“寛喜の飢餓” 「寛喜の飢饉」寛喜2年(1230~1231)発生した大飢饉。鎌倉時代を通じて最大規模。飢饉が生じた前後の時期は、

飢餓1
『歴史の時々変遷』(全361回)80“寛喜の飢餓”
「寛喜の飢饉」寛喜2年(1230~1231)発生した大飢饉。鎌倉時代を通じて最大規模。飢饉が生じた前後の時期は、天候不順な年が続いており、国内が疲弊した状態にあった。既に1229年には、飢饉を理由に安貞から寛喜への改元が行われている。年号が改まり、翌寛喜2年に入っても天候不順は続き、『吾妻鏡』によれば、同年6月9日に、美濃国蒔田荘および、武蔵国金子郷で、降雪が記録される異常気象に見舞われた。その後も長雨と冷夏に見まわれ、7月16日には、早くも霜降があり、ほぼ冬のような寒さに陥ったとある。更に8月6日午後には大洪水、翌々8月8日には暴風雨の襲来とその後の強い冷え込みと災害が続き、農作物の収穫に大きな被害をもたらした。一方で、同年の冬は極端な暖冬となり、他の作物の作付にも影響を与えた。このため、翌年寛喜3年の春になると、収穫のはるか前に、わずかな備蓄穀物を食べ尽くして飢餓に陥る、いわゆる春窮の状態となって各地で餓死者が続出し、「天下の人種三分の一失す」とまで語られる規模に至っている。翌年は冷夏ではなく、晩夏には飢饉も一服したとの記述もあるが、逆にこの年は酷暑年で旱魃に見舞われ、更に前年の飢饉で食べ尽くしたことによる種籾不足がもたらす作付不能が、更なる悪循環をもたらしていた。『百錬抄』には飢饉と源平合戦(治承・寿永の乱)が重なった1180年の飢饉(「養和の飢饉」)以来の飢饉と記されている。藤原定家の日記『明月記』にはその状況が詳しく書かれており、寛喜3年9月には北陸道と四国で凶作になったこと、翌7月には餓死者の死臭が定家の邸宅にまで及んだこと、また自己の所領があった伊勢国でも死者が多数出ていて収入が滞った事情が記されている。特に京都、鎌倉には流民が集中し、市中に餓死者が満ちあふれた。幕府は備蓄米を放出すると共に、鶴岡八幡宮で国土豊年の祈祷を行っている。翌1232年、貞永への改元が行われた。民衆の中には富豪の家に仕えたり、妻子や時には自分自身までも売却・質入したりするケースも相次ぎ、社会問題化した。対策に苦慮した幕府は1239年に飢饉の時の人身売買・質入は例外的に有効として飢饉終了以後に再び禁止する方針を打ち出した(同時に飢饉の終了に伴う人身売買・質入の禁止も宣言された)。御成敗式目の制定の背景にも大飢饉にともなう社会的混乱があったといわれている。宗教的には、親鸞や道元の活躍した時期と重なっており、とくに東国で親鸞が「絶対他力」を提唱したことについて、網野善彦は、こうした親鸞の思想の深化には、越後国から常陸国にうつった親鸞が、そこでみた大飢饉の惨憺たる光景に遭遇したことと深くかかわっていると指摘している。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。



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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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