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『歴史の時々変遷』(全361回)78“承久の乱” 「承久の乱」前編・鎌倉時代は承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権

承久2『歴史の時変遷』(全361回)78“承久の乱”

「承久の乱」前編・鎌倉時代は承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱を承久の乱・承久の合戦と言う。日本史上初めて朝廷の院宣や勅に逆らう軍事行動によって反乱軍が勝利した事件でらう。一見討幕に見られるが複雑で一律に言い切れない複雑な要素が含まれている。武家政権が鎌倉幕府で成立後、京都の公家政権の二頭政治が続いた。治承・寿永の乱の過程で鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士中心に樹立された鎌倉幕府は、東国中心の守護、地頭を設置し、警察権を把握していった。西国への支配は十分でなかったので依然として朝廷の力は強くm幕府と朝廷の二頭政治が行われていた。幕府の内紛に乗じて滅ぼそうとして事を決しようと後鳥羽上皇は気を窺っていった。前兆として将軍源実朝の暗殺にある。暗殺の数年前には、実朝の後継者として上皇の皇子を関東に下す約束が、上皇側近卿二位藤原兼子と実朝の生母北条政子の間で合意されていた。実朝は後鳥羽に恭順な態度を一貫して保持しており、後鳥羽の近習の源仲章を侍続として側近に加えていた。実朝を受け皿にして皇子を将軍となし、幕府を服属させてゆくのが後鳥羽の考えていたようである。しかし実朝の死によってその目論見が崩れたことから、上皇幕府から皇子下向の要請を断り、さらに寵愛する白拍子亀菊の所領である摂津長江・倉橋荘の地頭を革めるように幕府に求めて様子を窺った。しかし幕府はこの要求を拒み、結局、九条家から幼少の三寅頼経をを将軍候補に迎えることになった。この時点で上皇は実力で幕府を倒す決意を固めたようである。幕府は北条氏勢力の巨大化につれて、反北条勢力も台頭しつつあったこと、西国を中心に朝廷の勢力が回復してきたこと、多くの西国の守護や御家人の挙兵への協力が望めたことなどが、討幕の確信を高めた。12214月、順徳天皇を退位させ、仲恭天皇を即位させた後鳥羽は、天皇の代替わりを理由に、514日に鳥羽の城南寺の流鏑馬揃えと称して兵を集め、翌日執権北条義時追討の宣旨を発するとともに、誘いを拒んだ伊賀光秀を討った。この報せが鎌倉に伝わると御家人の北条政子の約束訴えるとともに、遠海・信濃以東の東国武士に檄を発した。北条泰時・時房の率いる東海道10万騎あまり、東山道5万騎、北陸道4万騎の大軍が京に向けて進軍した報せが入った時点で事実上敗退は明らかだった。上皇の下に参集した、院の近習の武士が中心で、これは関東方に着く機会を失った在京の御家人が加わる寄せ集めの軍隊に過ぎなかった。幕府軍が自滅するのを待ち望んでいた上皇の近臣は大慌て、上洛を阻止すると目に軍勢を美濃に派遣したが、藤原秀康や三浦胤義などの防衛も空しく、京方は惨敗し教に逃げ戻った。後鳥羽派武装し比叡山に登ったものの、支援を断られた、宇治川の防衛線も突破され、降伏した。幕府は後鳥羽・順徳と土御門の3上皇を隠岐・佐渡・土佐に流すことを決定し、仲恭天皇を廃し後鳥羽の兄の守貞親王を上皇に据えて、その子後堀河を即位させて朝廷の体制を一新させた。探題には北条泰時・時房が任じられた。乱の首謀者と見られた藤原光親、高倉範茂らは捕らえられて、関東に送る途中で斬られた。逃れた藤原秀康や尊長法印なども後に斬られた。乱に加担した人々の所領3000余りは没収され、東国の御家人が新規の地頭として補任された。こうして幕府の勢力は西国にまで及んで、朝廷を凌ぐ権威を持つことになった。この承久の乱以後鎌倉幕府の確固たるものになった。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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