>「神仏霊場巡り」丹生官省符神社・和歌山県伊都郡九度山町にある神社。九度山町慈尊院集落の南部に位置する。本殿は国の重要文化財。本殿はユネスコの世界遺産『紀伊山

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「神仏霊場巡り」丹生官省符神社・和歌山県伊都郡九度山町にある神社。九度山町慈尊院集落の南部に位置する。本殿は国の重要文化財。本殿はユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』祭神は丹生都比売大神・高野御子大神・大食都比売大神・市杵島比売大神・四神に太神宮(天照大御神)、八幡宮(誉田別大神)、春日明神(天児屋根大神)の三社を祀り、神宮寺の神通寺をあわせ神通寺七社明神とも呼んだ。社伝では弘仁七年(816年)に空海によって創建されたという。高野山の領する官省符荘の鎮守とされ、応永三年(1396年)の文書に「官省符鎮守・神通寺七社」と記録がある(『官省符荘庁番殿原請文』.この他にも神通寺七社明神の記録があり、七社のほかに十二王子社・百二十番神社などの名前が挙げられている。また、『紀伊続風土記』によれば、七社のうち丹生・高野の両神は弘仁年間に空海が勧請し、十二王子と百二十番神の二社が同時に勧請され、気比・厳島の二神は文明年間に勧請されたと伝えられており、これら四社は天文年間の洪水によって昔の境内が沈んでしまったので移転したという。1910年(明治四三年)に九度山、入郷、慈尊院(現・九度山町)にあった諸社を合祀し、1946年(昭和21年)、丹生官省符神社の社号にあらためた。

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「京都古社寺探訪」本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にあ

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「京都古社寺探訪」本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである。寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった。日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた[1]。その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。天文16年から17年(1537-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁した。日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていた。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲されるという本能寺の変起きて、その際の兵火で堂宇が焼失した。『信長公記』では同寺で信長が自害したとしているが、遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている。天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられた。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっていた。天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もある。

『江戸泰平の群像』4・本阿弥 光悦、永禄元年(1558~1637)は、江戸時代初

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『江戸泰平の群像』4・本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558~1637)は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。父光二は、元々多賀高忠の次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われるが、手紙の中に刀剣に触れたものは殆どみられない。京ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。元和元年(1615年)、光悦は、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。光悦の墓地も光悦寺にある。俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られるが、とくに漆工品などは、光悦本人がどこまで制作に関与したかは定かではない。孫の本阿弥光甫も陶芸家として著名であった。



『歴史の時々変遷』(全361回)265” 鍵屋の辻の決闘”

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『歴史の時々変遷』(全361回)265” 鍵屋の辻の決闘”
「鍵屋の辻の決闘」寛永11年11月7日(1634)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。寛永7年(1630)7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれた。激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。寛永9年(1632)、忠雄が疱瘡のため急死した。よほど無念だったのか、死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。しかし、源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれた。戦国時代よりの仇討ちの習いとしては兄が弟の、父祖が子孫の、主君が配下の仇を討つことは異例なことであったが、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいた。数馬は国替えに従わず、仇討ちのために脱藩する[1]。剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、寛永11年(1634)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人。11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。孫右衛門と武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにした。又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せた。次いで、又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。このとき武右衛門が斬られて命を落としている。頼みとしていた河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ出してしまった。 逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目で、この二人は剣術に慣れておらず、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。 俗に又右衛門の「36人斬り」と言われるが、実際に又右衛門が斬ったのは2人である。また、決闘地の領主である津藩藤堂家が又五郎一行の情報を提供したり、兵を密かに配置し、決闘が始まると周囲を封鎖し、又五郎の逃走を阻止するなど、数馬、又右衛門らを支援していたともいわれる。支援の理由はこの事件を外様大名と直参旗本との争いとみなしたためと見られる。見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の耳目を集めた。特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びた。数馬と又右衛門、孫右衛門は伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられ、この間、又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾する。結局、3人は鳥取藩が引き取ることになった。寛永15年(1638)8月13日、3人は鳥取に到着するが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を公表した。又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。


「平安京物語」31“道真公の怨霊”延喜14年(914)三善清行、政治上の「意見」を上申

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「平安京物語」31“道真公の怨霊”延喜14年(914)三善清行、政治上の「意見」を上申。4月28日、全文章博士三好清行が中央・地方の政治に関する「意見」を12箇条にまとめて「意見封事」を奉った。醍醐天皇は公卿以下地方の国司に至るまで詔を下し、政治上の「意見」を奏上するように命じたが、これに三善清行はこれに答えたものであった。延喜14年(923)皇太子保明親王が薨去した。皇太子の母は藤原時平の妹であり、後醍醐天皇の女御の藤原穏子で時平が権勢を強化しようと僅か二歳で立太子させたのである。菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳で病死すると、続いて延喜13年(913年)には道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。延喜23年4月20日(923年5月13日)、従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、その70年後の正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上にその子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる)。清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。火雷神が祀られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。



『河内史跡巡り』慈願寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である

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『河内史跡巡り』慈願寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。親鸞の東国布教の際、那須資村が帰依して信願房法心と号した。二十四輩のひとりでもある法心は、下野国那須郡志賀崎に念仏道場を開き、これを慈願寺と名付けた。その後、法心は親鸞とともに上洛し、終始親鸞に仕えた。親鸞の死後、親鸞の遺命を受けて河内国渋川郡久宝寺村に建立されたのが当寺である。本願寺の東西分裂期に顕証寺と対立し、江戸時代初期に古大和川(現在の長瀬川)東岸の若江郡八尾へ移転した。

「京都古社寺探訪」新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社

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「京都古社寺探訪」新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社、明治以降は新日吉神社。主祭神・大山咋命・大己貴命・玉依比売命・大山咋命荒魂・田心比売命・菊理比売命・玉依比売命荒魂・後白河天皇・相殿・素盞嗚尊・大年神。社伝によれば、永暦元年(1160)後白河上皇の命により、院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、比叡山は東坂本の日吉大社から迎え祀ったのが始まりと言う。桃山時代になって秀吉は三十三間堂(蓮華院)方広寺の境内に含められた。新日吉社は現在より南に創建されたと伝えられる。その後、社地を転々とし、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された明治三十年(1897)になってからである。昭和三十三年(1958)、後白河天皇を増祀し、翌昭和三十四年(1959)に神社名を現在の新日吉神宮と改めた。


京都古社寺探訪「蛸薬師堂」京都の蛸薬師は永福寺の本尊とされ、奉納される小絵馬

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京都古社寺探訪「蛸薬師堂」京都の蛸薬師は永福寺の本尊とされ、奉納される小絵馬には蛸と着物姿の女が描かれている。本来の永福寺本尊は伝教大師が製作した薬師如来で、水上薬師ないし沢薬師と呼ばれていた。時代を経る毎にこれが誤って蛸薬師と伝えられるようになり、江戸時代の『都名所図会』には既に「蛸薬師は永福寺と号し、円福寺境内にあり」と紹介されていた。その後円福寺は1788年、1864年の大火で類焼し、1883年に三河国岩津村へと移された。この際、岩津村にあった妙心寺が京都へ移され、現在の永福寺となっているが、本尊は変わらず蛸薬師のままになったという。江戸時代に刊行された菊岡沾凉の『本朝俗諺志』には蛸薬師の効能として、蛸の絵馬を書き、物絶をして祈ると疣や痣に効く不思議な効験があると紹介されている。その他、井上頼寿の『京都民俗志』では民家に蛸地蔵尊が祀られていたという話を紹介しており、蛸薬師信仰が民間レベルで浸透していたと考えられている。東京目黒区の蛸薬師は成就院の本尊とされ、慈覚大師(円仁)が自身の眼病平癒のために作ったものに由来すると伝えられている。慈覚大師が唐から帰朝の折に暴風雨に遭い、その際に先の像を海に投じて祈ったところ、無事帰り着くことが叶ったという。その後諸国巡礼の際に肥前松浦で投じた薬師像が蛸に乗って顕現し、小像は慈覚大師の手元に戻ることとなった。目黒で疫病が流行した際に、この小僧を胎内仏として製作した薬師如来が現在の成就院蛸薬師となっている。成就院蛸薬師の効能について、井上喜平治『蛸の国』では蛸を断食して祈ることで吹き出物・疣が治癒すると紹介されている。こうした話は松平定信の『花月草紙』にも紹介されており、民間伝承として広く信仰されていたことが伺える。

『江戸泰平の群像』3・板倉 勝重(いたくら かつしげ)(1545~1624)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての旗本、大名。江戸町奉行

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『江戸泰平の群像』3・板倉 勝重(いたくら かつしげ)(1545~1624)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての旗本、大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した。板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市小美町)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが永禄4年(1561年)に父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も天正9年(1581年)に高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した。その後は主に施政面に従事し、天正14年(1586年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、同18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し春日局が公募に参加したという説がある。慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され、同14年(1609年)には近江・山城に領地を加増され1万6,600石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。慶長19年(1614年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。元和6年(1620年)、長男の重宗に京都所司代の職を譲った。寛永元年(1624年)に死去、享年79。

『歴史の時々変遷』(全361回)264” 生駒騒動” 「生駒騒動」江戸時代初期に讃岐高松藩生駒家で起こったお家騒動。重臣が争い、

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『歴史の時々変遷』(全361回)264” 生駒騒動”
「生駒騒動」江戸時代初期に讃岐高松藩生駒家で起こったお家騒動。重臣が争い、生駒家は改易となった。大名としての生駒家は織田信長、豊臣秀吉に仕えた生駒親正にはじまる。四国平定後、親正は讃岐国17万1800石を与えられ、三中老に任じられて豊臣政権に参与した。関ヶ原の戦いでは親正は西軍に与したが、嫡男一正が東軍に参じて戦ったため本領安堵され、親正は一正に家督を譲り隠居、一正の後は子の正俊が襲封した。正俊は伊勢津藩主藤堂高虎の娘を正室とした。高虎は豊臣系の外様大名だが、秀吉の死後は徳川家康への忠勤に励み江戸幕府の信頼が厚かった。元和7年(1621)、正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師が後を継いだが、小法師が若年であったため外祖父の高虎が後見することになり、高虎は西嶋八兵衛など藤堂家の家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせた。寛永2年(1625)、小法師は元服して高俊を名乗り、翌年には従五位下壱岐守に叙任し、さらに幕府の老中首席土井利勝の娘と婚約した(寛永10年(1633)に輿入れ)。高虎は生駒家一門の家老生駒将監・帯刀父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。寛永7年(1630)、高虎が死去して藤堂家は息子の高次が継ぎ、生駒家の後見も引き継ぐことになった。前野と石崎は高次の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年に将監が死ぬと藩政を牛耳るようになった。藩主の高俊は無責任で暗愚、怠惰な人物であり、藩政を両人に任せきりにして、自身は専ら男色を極度に愛好し、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていた。世人はこれを「生駒おどり」と呼んだ。正室が父の利勝に高俊の行跡を訴え、利勝は立腹して厳しく諌めさせたが高俊の乱行は一向に収まらなかった。増長した前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立して家中は乱れた。寛永12年(1635)、生駒家は幕府より江戸城修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をして行った。前野と石崎はこの返済のために高松城の南方の石清尾山の松林を木屋に伐採させた。この山は親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であり、家中の者たちは憤慨した。彼らは家老生駒帯刀を説き立て、前野と石崎の非違を親類へ訴えることになった。寛永14年(1637)7月、帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ行き訴状を差し出した。訴状を受け取った高次は容易ならぬことと思い、利勝と生駒家縁戚の脇坂安元と相談し、帯刀を尋問した。高次は穏便に済ますよう帯刀を説諭して国許へ帰らせ、次いで前野と石崎を藩邸に召して尋問の上で厳しく訓戒し、以後は慎むよう誓わせた。しかし、家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになった。寛永15年(1638)10月、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出た。国許にあった高次は帯刀を伊勢津藩に呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した。寛永16年(1639)4月、参勤交代で江戸に出た高次は安元及び利勝(前年に幕府大老に就任)と相談、このままでは訴訟が絶えず遂には生駒家はお取り潰しになると考え、事を収めるため喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになった。5月、藩主高俊が参勤交代で江戸に来て前野と石崎も従っていた。高次は前野、石崎及び国許から帯刀を藤堂家の藩邸に呼んで説得し、彼らは御家のために切腹することを承知した。高次は帯刀を藤堂家の領地の伊賀へ行かせた。8月、高次は使者に兵をつけて讃岐に遣わし、江戸での決定を家中の者たちに伝えた。これに帯刀派の家臣たちが不満を抱き騒ぎ始めた。12月、彼らは江戸にいる藩主高俊に帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えた。これまでの事情を全く知らされていなかった高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒った。寛永17年(1640)1月、高俊は藤堂家の藩邸に赴き高次に抗議した。高次は説諭するが高俊は納得せず、怒った高次はならば勝手にせよと匙を投げ、生駒家の家政から手を引くことにした。藤堂家の兵も讃岐から立ち去った。帯刀は帰国。帯刀派は歓喜したが、江戸で切腹するつもりで控えていた前野と石崎は衝撃を受け、切腹をやめ、事の始末を幕府に訴えることにした。4月、前野・石崎派は老中稲葉正勝に訴状を提出した。同時に国許に使者を送り、同志の者たちに家族を引き連れて立退くよう指図した。讃岐では、前野・石崎派の侍8人、家族や家来を含めると2300人が鉄砲や刀槍で武装して国許を立退く大騒ぎになった。江戸でも一味の者たちが藩邸を立退いた。幕府は両派の者たちを江戸城に召して審議することにした。この間に一方の首領の前野助左衛門が病死した。7月、前野・石崎派と帯刀派は対決し、帯刀は前野・石崎の専横を申し立て、更に彼らが武装して立退いたことを訴えた。3回の対審の後に幕府の裁定が決した。帯刀派に対して帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲松江藩にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなった。前野・石崎派に対しては石崎、前野冶太夫(助左衛門の子)ら4人は切腹、彼らの子供のうち男子は死罪、また主だった者たち数人も死罪となった。同時に幕府は藩主高俊に対しても家中不取締りであるとして城地を没収し、出羽へ流罪とし堪忍料として矢島1万石を与えた。高松藩はその後天領となり、水戸徳川家出身の松平頼重が常陸下館藩から12万石で転封された。


プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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