忠臣大楠公・楠正成は南北朝時代活躍した河内の英雄である。南北朝が衰退する中、後醍醐天皇に命を捧げた。「公」を忘れた日本人へ今尚問いかける。

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忠臣大楠公・楠正成は南北朝時代活躍した河内の英雄である。南北朝が衰退する中、後醍醐天皇に命を捧げた。「公」を忘れた日本人へ今尚問いかける。
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二十二社めぐり・「京都古社寺探訪」梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社

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二十二社めぐり・「京都古社寺探訪」梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社で、旧社格は官幣中社。現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「梅宮神社」。神紋は「橘」。京都市西部の梅津の地に鎮座する、四姓(源平藤橘)の1つ橘氏の氏社として知られる神社である。元々は奈良時代に南方の綴喜郡井手町付近に創祀されたといわれ、のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。現在地への遷座に関わった橘嘉智子は、嵯峨天皇(第52代)の皇后として仁明天皇(第54代)を出産し、外戚としての橘氏の中興に貢献した人物である。社伝では、橘嘉智子には子がなかったが梅宮神に祈願したことで皇子を授かったといい、その伝承に因んで現在も子授け・安産の神として信仰される。また祭神の名から酒造の神としても信仰されており、酒にまつわる多くの神事が現在も行われている。そのほか、梅宮大社の例祭は「梅宮祭」として古くから知られ、特に平安時代当時には古雅な祭として有名であった。現在の社殿のうち、本殿・拝殿・楼門・境内社若宮社・境内社護王社の5棟は江戸時代の造営であり、京都府登録文化財に登録されている。現在の祭神は、次の本殿4柱・相殿4柱の計8柱。相殿4柱は仁寿年間(851年-854年)の合祀という。本殿・酒解神 - 大山祇神(おおやまづみのかみ)にあてられ、酒造の守護神とされる。大若子神 - 瓊々杵尊にあてられる。小若子神 - 彦火火出見尊にあてられる。酒解子神 - 木花咲耶姫命にあてられる。梅宮大社で本殿に祀られる酒解神を始め4柱は、いずれも梅宮大社特有の神である。神名の初見は酒解神・大若子神・小若子神は承和3年(836年)、酒解子神は承和10年(843年)[原 2]になる。特に主神である酒解神については、「サカトケ」の字義を「辟解」として悪霊を祓う神とする説、「堺解」として境界に居て悪霊を鎮める神とする説が挙げられるが不詳。また神格としては、橘氏が奉斎したことから橘氏の祖神とする説のほか、大山祇神にあてる説があるが、こちらも明らかではない。後者の説として、『大和豊秋津島卜定記』では酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神をそれぞれ大山祇神・木花咲耶姫命・瓊々杵尊・彦火火出見尊にあてており、現在の梅宮大社ではこの説を採用している[4]。なお『延喜式』神名帳では、山城国乙訓郡に「自玉手祭来酒解神社名神大元名山埼社」として「酒解神」を祀る式内社の記載がある。この酒解神社は、。その社名は、神名帳の記載によると元々あった「山埼社」に「玉手」から酒解神が勧請されたことを意味するが、「玉手」の場所やこの神社と橘氏ないし梅宮社との関係は明らかでない。梅宮大社の創建は旧記等が散逸しているため詳細には明らかでないが、神社側では由緒を次のように伝える。まず奈良時代に県犬養三千代(橘三千代、橘諸兄母)によって山城国相楽郡井手庄に祀られたのが創祀であるとし、その子の橘諸兄には氏神として祀られたという。さらに天平宝字年間(757年-765年)に三千代の子の光明皇后と牟漏女王(藤原武智麻呂夫人)によって奈良に移されたのち、木津川上流の桛山(かせやま)を経て、平安時代始めに檀林皇后(橘嘉智子)によって現在地に遷祀されたという。一方、平安時代末期の『伊呂波字類抄』でも梅宮社創祀に関する記述が見える。同抄では、檀林皇后がその氏神を円堤寺、すなわち橘諸兄が創建した氏寺の井手寺に祀ったことに由来するとする。この文では付記として、この神が元々は県犬養三千代によって祀られ、次いで子の光明皇后と牟漏女王によって「洛隅内頭」に、その後「相楽郡堤山」の地に遷祭されたとする。そして平安時代に入って仁明天皇の時、井手寺に祀られていた神が天皇外家神(外戚神)ながら大幣に預からなかったことに怒りを示したため、皇后自らによって「葛野川頭」に遷祀されたという。なお、国史でも『日本三代実録』元慶3年条において、やはり梅宮社が檀林皇后由来である旨が記されている。以後の梅宮大社は橘氏から氏社として崇敬されたほか、県犬養三千代が藤原不比等夫人でもあった関係から藤原氏からも崇敬されたという。国史では、承和3年(836年)に「山城国葛野郡梅宮社」の祭神である酒解神・大若子神・小若子神の3神に神階叙位の記事が見え、遅れて承和10年(843年)に酒解子神の神階叙位が確認される。その後これら4神の神階は重ねて昇叙され、貞観17年(875年)に従三位、延喜11年(911年)には正三位に昇った。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国葛野郡に「梅宮坐神四社並名神大月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『二十二社註式』によれば、平安時代中期には名社として二十二社の1つに列しており、治承4年(1180年)には正一位が授けられたという。また、平安時代には年2回の梅宮祭が勅祭として行われたことが知られる。永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」では松尾社・稲荷社など山城国の5社のうちに梅宮社が含まれており、藁200束・薪200束を梅宮社から神祇官に調進する規定であった。以後は橘氏衰退に伴い社勢も衰えたが、中世も祭祀は続いていた。しかしながら、文明6年(1474年)には戦乱に巻き込まれ社殿を焼失している。近世には朱印地として59石余が与えられ、元禄13年(1700年)には現在に見る社殿が造営された。明治維新後、明治4年(1871年)に「梅宮神社」として近代社格制度において官幣中社に列した。戦後は昭和26年(1951年)に社名を現在の「梅宮大社」と改称し、現在に至っている。




『戦国時代の群像』168(全192回)南部利直(1576~1632)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。南部氏第27代当主。陸奥盛岡藩の第2代藩主。

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『戦国時代の群像』168(全192回)南部利直(1576~1632)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。南部氏第27代当主。陸奥盛岡藩の第2代藩主。天正4年(1576年)、第26代当主・南部信直の長男[1]として三戸の田子城にて生まれる。天正18年(1590年)、前田利家を烏帽子親として元服し、その偏諱(「利」の1字)を受けて利直と名乗る。文禄4年(1595年)に従五位下・信濃守に叙任。慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去した後は父とともに五大老筆頭の徳川家康に近づいた。慶長4年(1599年)、父が死去したため、家督を継いで南部家の第27代当主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍の家康は東北・北陸の大名に対し西軍の石田三成に通じた会津上杉景勝の征伐を命じ、利直は最上義光の後援として山形に出陣するが(慶長出羽合戦)、領土拡大を密かに謀った伊達政宗が和賀忠親を煽動して和賀郡や稗貫郡で一揆を起こしたため、帰国を許されて慶長6年(1601年)までに一揆を鎮圧した(岩崎一揆)。以降は盛岡藩政の整備に着手し、白根金山や西道金山をはじめとする鉱山開発から財政を安定させた。折から領内の産金が著しいこともあり財政に恵まれて近世的支配体制が進展する。元和元年(1615年)には盛岡城を築城して城下町を形成し、三戸城下の市民も盛岡に移した。また、九戸政実の乱の先例から家臣の多くを処罰、追放して独裁集権化を進め、盛岡藩の基礎を固めていった。慶長19年(1614年)には大坂冬の陣にも参陣し、江戸幕府との関係強化に務めた。寛永3年(1626年)に従四位下になる。寛永9年(1632年)8月18日、江戸桜田屋敷で死去。享年57。後を三男の重直が継いだ。


『歴史の時々変遷』(全361回)239“大坂冬の陣”「大坂冬の陣」豊臣方の準備・慶長19年10月2日(1614)、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。

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『歴史の時々変遷』(全361回)239“大坂冬の陣”「大坂冬の陣」豊臣方の準備・慶長19年10月2日(1614)、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆のほかにも塙直之、大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は違えど、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの烏合の衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。豊臣軍内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された。同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。幕府軍の出陣・10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。 翌12日には豊臣方の真木島昭光が堺の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。 そして、23日に家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。福島正則や黒田長政は関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だった為、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。 諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家附家老の本多富正が軍を率いて越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。慶長19年11月19日(1614年12月19日)、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していった[12]。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している。この接近時に豊臣方の挑発に乗って始められた、包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦(12月3日、4日)では、豊臣方が徳川軍を撃退、諸隊に損害を与えた。秀忠は同日4日に岡山に着陣し、家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申するが、家康は敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよとこれを退けている。5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し、8日までに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。9日より家康は大坂城に対する攻城を本格化させる。先月23日より伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄堤がこの日竣工し、大和川があるため、干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる。本工事終了後、続いて大和川の塞き止めも行っている。また、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)。この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は20から30間、藤堂隊は7間に近接している。10日には投降を促す矢文を送り、11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊するための坑道掘削を始めた。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている。更に、船場の堀の埋め立ても命じた。そして16日から全軍より一斉砲撃が始められる。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。 この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられ、また芝辻理石衛門が作った大砲が使われた。この後者は世界的にも珍しい鍛造で作られた鉄製の大砲である。この大砲の実物は現在、靖国神社の遊就館に奉納されている。 その他、6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)[25]も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかった。これに対し豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃し、竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと鉄砲の効果は激減する。また砲撃に対抗してこちらも砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたが(17日)、劣勢であることは否めず和議に応ずることとなる。また淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる。徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり、また真冬の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。豊臣方も同じく兵糧に加え弾薬の欠乏や徳川方が仕掛けた心理戦、大砲で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労し、また本丸への砲撃で近くに着弾し淀殿の侍女8名が死亡した。豊臣家で主導的立場にあった淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、そのあまりに凄惨な光景を見て即刻和議に応ずることになる(16日)。また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた。交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。講和内容は豊臣家側の条件として・本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めること。・淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。が提出され、これに対し徳川家が秀頼の身の安全と本領の安堵。城中諸士についての不問。を約すことで、和議は成立している。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた。和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものであった。しかし、徳川側は徹底的な破壊を実行する。松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋めた後に、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も徹底的に破壊されている。従来は、堀を埋めたことと城郭の一部の破壊については、外周の外堀だけを埋める約束であったものを、幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てるという卑劣な手段を使ったとされてきたが、この逸話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できないものである。さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事をめぐって、大坂方との間で何らかの揉め事が発生しているような形跡を認めることができないことから「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであったといえる。

「平安京物語」4”藤原種継暗殺事件“延暦3年(784年)桓武天皇は平城京からの遷都を望むと、「天皇はなはだこれ(種継)を委

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藤原2 (2)
「平安京物語」4”藤原種継暗殺事件“延暦3年(784年)桓武天皇は平城京からの遷都を望むと、「天皇はなはだこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とまで評されるほど大きく政務を委ねられていた種継は、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提唱した。桓武天皇の命をうけ藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂らとともに長岡の地を視察し、同年長岡京の造宮使に任命される。事実上の遷都の責任者であった。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。ところが、遷都後間もない延暦4年(785年)9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。暗殺犯として大伴竹良らがまず捕縛され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前の8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して流罪となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太弟であった早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展する。もともと種継と早良親王は不仲であった[4]とされているが、実際の早良親王の事件関与有無は定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり[5]、佐伯高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その後長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになった事も含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。最終官位は中納言正三位兼式部卿。享年49。種継は死後、桓武天皇により正一位・左大臣が贈られ、大同4年(809年)には太政大臣の官職が贈られた。


『浪速史跡めぐり』四ツ橋・大阪市はビジネス街は交通の要所は四ツ橋であるが、昔は四方に橋があって観月や夕涼みの名所として知られていた

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『浪速史跡めぐり』四ツ橋・大阪市はビジネス街は交通の要所は四ツ橋であるが、昔は四方に橋があって観月や夕涼みの名所として知られていた。西横堀川と長堀川は交差する要所に、炭屋橋、吉野屋橋、上繋橋、下繋橋の架かっていることに由来し、水戸黄門が関西漫遊の時に、四ツ橋上で涼みながら、家々が開けっ放しに無用心だと話をしていると、そばにいた町奉行が夜盗と間違われてつかまったと言う伝説があるが、水戸黄門は城内から出たことがないと言うのは定説、大塩親子が逃亡の時、刀を橋の下に置いたと言うのは如何にも大阪の大事件を物語る。

「一ノ宮巡り」坐摩神社・祭神生井神・福井神・波比岐神・阿須波神 大阪市中央区久太郎町4の3・式内社・旧官幣中社・

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「一ノ宮巡り」坐摩神社・祭神生井神・福井神・波比岐神・阿須波神
大阪市中央区久太郎町4の3・式内社・旧官幣中社・
大阪の都心の中心にあって地域の守護神社として、南御堂の西側に隣接し、入り口に大小三つの「三つ鳥居」が見える。祭神は生井(いくいの)神(かみ)・福井(さくいの)神(かみ)・綱(つな)長井(ながいの)神(かみ)・波比祇(はひきの)神(かみ)・阿(は)須波(すはの)神(かみ)の五柱を神武天皇が高皇産霊神と天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされている。
創建は徳天皇の難波高津宮の皇居であり、宮中の地霊を祀る為に鎮座されたと言う。
社名について「坐摩巫」には都下(つげ)国造(くにのみやつこ)の七歳以上の童女を充てるとされ、西からくる穢れを祓う儀式が行われるのに由来をしているのではないかと思われる。
都下については淀川の河口一帯を指すとされ、世襲宮司の渡辺氏が、この都下国造の末裔であり。嵯峨源氏の流れを汲むものと言われている。
『延喜式神名帳』では摂津国西成唯一の大社に列し、住吉大社と同一に摂津一ノ宮を称している。
天正十一年(1583)大阪城築城に際して、西横堀川に近い現在日に遷座をしてきた。
また境内には「陶器神社」があって江戸時代には、この界隈には陶器問屋が軒を連ねていた。その名残に末社に「冬季神社」を祀っている。
明治以前まで、府社に列していたが昭和十一年に旧官幣中社に昇格した。しかしその時の新社殿も大阪大空襲で焼失し現在のような鉄筋に建て替えられた。
近年上方落語の発祥の地として初代桂文治が寄せを開いた故事に則り、境内に「上方落語の発祥の地」の石碑が建立された。
★創建については『古事記』にある神功皇后の三韓征伐より帰還した時に淀川河口に坐摩神を祀ったことに由来する。
今日でも旧社地に坐摩神社の行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている


 「神仏霊場巡り」百済寺・山号は釈迦山「古東三山」で最も南にあって、金剛輪寺、西明寺と並んでいる。百済寺は推古天皇御世(606年)聖徳太子の御願で創建され

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 「神仏霊場巡り」百済寺・山号は釈迦山「古東三山」で最も南にあって、金剛輪寺、西明寺と並んでいる。百済寺は推古天皇御世(606年)聖徳太子の御願で創建され、寺伝に似れば高句麗の僧、恵慈と共にここに訪れた際、山中に不思議な光る物が見え、近寄って見ると霊木の杉であった。
根が付いたままに観音像を刻むと像を中心に堂を建立した。御堂は百済の龍雲寺を模したと言い、近江最古の由来を誇る。
比叡山の延暦寺が開かれると、百済寺も天台宗の寺院となった。湖東の小比叡山と称され、鎌倉時代には天台別院と呼ばれ、周辺を含め一山寺坊千を数え、千三百人の僧が居たと言われている。その後、六角氏の内紛に巻き込まれ、また織田信長の比叡山焼打ちに一山が灰と化した。
その後天海の高弟亮産によって再建された。

「平安京物語」3”他戸親王失脚“親王の父・白壁王は天智天皇の孫である。だが、既に皇位が天武天皇系に移されて久しく、王自身

他戸1
他戸4
「平安京物語」3”他戸親王失脚“親王の父・白壁王は天智天皇の孫である。だが、既に皇位が天武天皇系に移されて久しく、王自身も皇族の長老ゆえに大納言の高位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は皇位継承を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下で、天智天皇の曾孫で母親も聖武天皇(天武天皇の嫡流)の内親王である他戸王(当時は親王ではない)が注目されるようになる[1]。やがて称徳天皇が亡くなると藤原氏は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する。かくして宝亀元年(770年)に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。翌宝亀2年1月23日には他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。ところが宝亀3年(772年)、突如母親である皇后井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆のかどで皇后を廃され、5月27日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀4年10月19日には、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)4月27日、幽閉先で母と共に急死する(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。かくして、山部親王が皇太子に立てられてやがて桓武天皇として即位する事になるものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両朝を悩ませる事になっていくのである。

『戦国時代の群像』167(全192回) 長宗我部盛親(1575~1615)安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の大名・武将

長曾我部1
長曾我部4
『戦国時代の群像』167(全192回)
長宗我部盛親(1575~1615)安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の4男。戦国大名としての長曽我部氏の最後の当主。父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、兄・津野親忠を殺したことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北した。天正3年(1575年)、長宗我部元親の4男に生まれる。幼名は千熊丸。天正14年(1586年)の戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争うが、父の後押しがあり、天正16年(1588年)に世子に指名された。この家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかった。その理由のひとつは、元々盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く、嫌悪感を持つ者がいたからである(しかし元親はそれらを全て処断している)。元親が少年である千熊丸を世子に指名した理由は、親和と親忠は他の家系を既に継いでいたこと、何よりも溺愛していた信親の娘を娶わせるには上の2人では年齢差がありすぎたためともされている。豊臣氏の一門ではなく増田長盛を烏帽子親として元服し、「盛」の一字を授かって盛親と名乗ったことから、豊臣政権下において長宗我部家の格付けは低かったとされる。長宗我部家の家督に決定した後、父・元親と共に長宗我部氏の共同支配者として二頭政治を行い、豊臣氏による天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に参加する。また、文禄3年(1594年)以降、知行宛行権が盛親に移譲されたが、これ以外の大名当主としての権限は変わらずに両人が共有していた[11]。更に慶長2年(1597年)3月24日に父の元親と共に制定した「長宗我部元親百箇条」を発布している。だが、こうした流れの一方で、家督継承の経緯の異常性からか、豊臣秀吉及び豊臣政権は盛親を長宗我部氏の当主として最後まで認めなかったとする見方がある。武家官位を重要視する豊臣政権は大名およびその後継者に一定の官位を授けていたが、盛親が官位を受けた記録は無く、公式には通称の「右衛門太郎」のままであり(「土佐守」などは非公式な通称とされる)、これは大名当主としては異様である。慶長4年(1599年)5月、父・元親の死去により、家督を継いで土佐の国主となる。だが、その後も盛親の長宗我部氏の家督と土佐の国主の継承を豊臣政権が承認したことを示す記録は存在せず、この異常な状況は翌年の関ヶ原の戦いまで続くことになる。これに対して、慶長2年に盛親が単独で豊臣秀吉に拝謁していたことから、次期当主として承認されていたのではないかとする説もある。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。西軍に加担したのは元親生前より増田長盛や垣見一直との縁があったからとみられ、盛親参戦の動機は当主として豊臣政権から認知されることにあった。『古城伝承記』によると、盛親は当初は東軍に味方しようと決め、十市新左衛門・町三郎右衛門の二人を使者として家康に派遣しようとしたが、近江水口で西軍に道を閉ざされ、西軍に味方をすることに決めたとされるが、山本大によると、盛親と増田長盛の関係を考えるとこの話の真偽は疑わしいのではないかとしている[17]。盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した。しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は壊滅した。西軍壊滅後、盛親は西軍の壊滅を島津義弘の知らせと吉田重年の偵察で知った。盛親は池田輝政軍や浅野幸長軍の追撃を受けて多羅尾山に逃れ、伊賀から和泉に逃れて小出吉親の追撃を受けて大坂の天満に引揚げて、土佐へ帰った。その後、盛親は懇意にあった徳川氏の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしたが、『土佐物語』などでは改易の原因を家臣・久武親直の讒言から兄の津野親忠を殺害したため、家康の怒りを買って領土没収で改易されたとしている。ただし、井伊直政の書状によると盛親は土佐を没収される代わりに「御堪忍分」という形で替地を与えられる予定であり、盛親の上洛はそれに応じたものだったようだ。しかし接収時に国替えに不満な家臣や吉良・津野などの遺臣が国元で浦戸一揆を引き起こし、その責任を問われ「御堪忍分」の支給を反故にされ改易という形になったことが伺える。一方で津野親忠殺害の是非については触れられた様子がない。[27] 大名家としての長宗我部家はこのときをもって滅亡し、一領具足で鳴った勇猛な家臣団は各地の大名に誘われ再仕官する者、浪人となった者、元の百姓に戻った者など、散り散りになった。浪人となった盛親は京都の町人に預けられ、上立売の柳ヶ逗子で蟄居生活を送る事になった。大岩祐夢と称して、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれるが、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もある[30]。また清原秀賢と交友があったとの記録も残っている。いずれにしても反徳川の火種になり得る危険人物として京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれていた。慶長19年(1614年)秋、大坂方と徳川方との間が風雲急を告げる中、盛親は豊臣秀頼の招きに応じて京都を脱出する。わずか6人の従者と共に出発したが、土佐時代のかつての旧臣や浪人などと合流し1000人もの軍団となり、10月6日に大坂城に入った。9月に京都所司代の板倉勝重は盛親に大坂入城の是非を詰問し、盛親は此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たいと念願しており、浅野長晟とも旧約を結んでいると答えて勝重を油断させ、10月6日に大坂入城を果たした。[32]。さらにこれに応じて長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちも入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持つに至った盛親は、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登とともに、いわゆる「五人衆」に数えられる主力部隊となった。こうして大坂の陣が始まり、籠城戦となった冬の陣では豊臣家重臣の木村重成、後藤基次らとともに八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担った。12月4日に真田丸の戦いが始まると、城内の火薬庫が爆発した事故を南条元忠の寝返りの合図と勘違いして押し寄せてきた井伊直孝隊・松平忠直隊に応戦し、損害を与えて退却させた。しかしこれ以外に大規模な戦闘は発生せず、膠着状態のまま大坂方と幕府方の間に和議が成立する。野戦となった夏の陣では木村重成とともに徳川家康の本陣を突くべく5千余の主力軍勢を率いて出陣し、徳川方の藤堂高虎隊と激突する。八尾・若江の戦いである。慶長20年(1615年)5月6日の未明、八尾に進出していた長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇した。この時、長宗我部隊の先鋒は軽装備であったためすぐに本隊と合流しようとしたが、逆に藤堂隊にも発見されてしまう。鉄砲を撃ち込まれた先鋒は壊滅し、吉田重親は本隊に伝令を発したのち討ち死にした。藤堂隊は勢いに乗じて長宗我部本隊を殲滅しようと攻勢を強めるが、盛親は川の堤防に兵を伏せ、藤堂隊を十分に引き付けたところで槍を構えた兵を突撃させた。思わぬ猛反撃を受けた藤堂隊の先陣は一気に壊滅、盛親はなおも攻撃の手を緩めなかったため藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、高虎の甥の藤堂高刑など前線の将が一度に討ち死にする。統制が乱れた藤堂隊は高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となった。しかし、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、ほどなく井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつける。この報を受けた盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へ撤退した。5月11日に京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送された[37]。その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして5月15日に京都の六条河原で斬られた。享年41。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。京都の蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名した。


プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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