「神仏霊場巡り」車折神社(くるまざきじんじゃ)京福嵐山電鉄に乗って車折神社駅で下車、賑やかで建て詰まった細い道を行くと緑に包まれた神社が車折神社である

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く車折れ神社O
「神仏霊場巡り」車折神社(くるまざきじんじゃ)京福嵐山電鉄に乗って車折神社駅で下車、賑やかで建て詰まった細い道を行くと緑に包まれた神社が車折神社である。祭神は清原頼業公で天武天皇の皇子、舎人親王に連なる清原氏の菩提寺の宝珠院の境内で清原真人頼業の墓所の有った所と伝えられている。「車折」の名については、後嵯峨天皇が大堰川行幸の際この前に突然。牛車の轅(牛車の前に突き出た二本の棒)が折れために、その社号を贈られたという。その後に亀山天皇が嵐山行幸の際、社殿の前で牛車が停まり、牛が一歩も動かないので、共の者が怪しんで、始めてこの社がることを知り、天皇の牛車から下りて「車折明神」の神号と正一位の神階を与えられた。境内には「天宇受売命」を祀る芸能神社があって、芸能人や上達を祈願の神として、芸能人の奉納した朱塗りの玉垣がある。
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「神仏霊場巡り」鹿苑寺・京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った三層の楼閣建築である舎利殿は金閣、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺として知られる

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「神仏霊場巡り」鹿苑寺・京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った三層の楼閣建築である舎利殿は金閣、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺として知られる。
相国寺の山外塔頭寺院である。寺名は開基(創設者)である室町幕府三代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ。
義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和二十五年(1950年)に放火により焼失し、昭和三十年(1955年)に再建された。
平成六年(1994年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。この地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた。
これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有し、同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとする謀反が発覚したために逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。
このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。応永4年(1397年)、室町幕府三代将軍足利義満が河内の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。
この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。
応永十五年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣を追放して自らここに入ったが、翌十六年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。
その後、義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永二十六年(1419年)北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。
また、応永二十三年(1416年)1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するように命じている。
応永二十七年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山としている。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安二年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により明治二十七年(1894年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。



『戦国時代の群像』176(全192回) 宮部長房(1581~1635)天正9年(1581年)-、安土桃山時代の武将・大名

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『戦国時代の群像』176(全192回)
宮部長房(1581~1635)天正9年(1581年)- 寛永11年11月18日(1635年1月6日))は、安土桃山時代の武将・大名。宮部継潤の嫡男(養子とも)。宮部長邑の父。諱は長煕(ながひろ)、定行とも。従五位下。兵部少輔。豊臣秀吉に仕え信任を受け、1586年には従五位下兵部少輔に叙任され、豊臣姓を与えられた[1]。朝鮮出兵にも参加したが、彼の陣で饗応を受けた加藤光泰がその直後に吐血して急死するという事件もおきている。慶長元年(1596年)、父の隠居により家督を継ぐ。慶長5年(1600年)の会津征伐には500人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けて反転して西上した。鳴海まで来たところで、小舅の池田秀氏が飛脚を寄こして西軍に付くよう言ってきた[]。与力の木下重堅、垣屋恒総がすでに西軍に走ったこともあり、家中の大将格の七人衆に相談したところ、三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は西軍に付くよう進言してきたが、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門らは反対する。しかし長房の心は西軍に動いていたため、熱田の渡しから桑名に行こうとしたが、見張りがいて船の往来ができないため、夜に渡ろうと船を一艘借り出し銀二百枚を渡し約束した。一艘に大勢は乗れないので上下の者十三人で夜中に陣中を抜け出し熱田に向かったが、約束の船がいなく辺りを捜しまわった。その頃家臣らは、陣中に長房が見えなくなったことにより、長房は西軍に走ったに違いないと考えたが、これに追いつく方法もなく、また、総大将が居なくなったことにより宮部家臣らはどうしようもなくなり、昔からの縁故がある田中吉政に皆で掛合ってその軍勢に加わった]。結局、長房らは船は見つからず夜明けを迎えてしまい、空となった自陣へ戻ってきて呆然としていたところを、騒動を聞きつけた徳川の目付けが長房を拘束、岡崎城に押し込められてしまった。西軍の敗戦後、居城の鳥取城は亀井茲矩、斎村政広の攻撃を受け開城し、鳥取5万石の所領は没収されてしまった。戦後、敵味方の処分詮議の際、長房は死罪となりかけたが、田中吉政が自分の旧主で昔の恩義が忘れられない、と助命嘆願をしてくれたため、七人衆で西軍加担を進言した三田村と高坂の二人は切腹させられたが、長房は当分の間、田中吉政に預け置かれることとなった。翌年12月17日にその身柄を南部利直に預けられ、現米123駄70人扶持(約460石)を給されて暮らした。その後、剃髪して長令と号し、寛永11年(1634年)盛岡で没した。晩年の寛永7年(1630年)、寝返り行為を行ったのは、田中吉政に騙されてのことであるとする文書を幕府に提出した。しかし、吉政ほか既に多くの検証できる人物が死んでしまった後のことであり、真偽を定かにすることはできず、沙汰止みとなってしまった。現在も真相は不明なままである。長男宮部左衛門尉長之は母方の縁で津藩藤堂家に仕官、その後尾張徳川家に仕えるが嗣子がなく断絶したといわれる。次男宮部兵蔵長邑は盛岡で生まれ、寛文4年(1664年)に没し、その子の宮部図書長興(幼名、千勝)は、寛文7年(1667年)、7歳の時に将軍徳川秀忠の17回忌の大赦により赦免、南部家に出仕して666石を給された。また、その子宮部頼母長官の代に多賀姓に改姓し、長官の子多賀図書長英、その子の多賀頼母長郷と二代続けて南部藩家老を勤めた。明治維新後に宮部姓に復した。自由民権運動で知られる宮部謙吉は末裔。

『歴史の時々変遷』(全361回)247“鍋島騒動”「鍋島騒動」肥前佐賀藩で起こったお家騒動。鍋島化け猫騒動として有名であるが、ここでは史実の出来

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『歴史の時々変遷』(全361回)247“鍋島騒動”「鍋島騒動」肥前佐賀藩で起こったお家騒動。鍋島化け猫騒動として有名であるが、ここでは史実の出来事について記述する。化け猫伝説については鍋島の化け猫騒動を参照。天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、後を継いだ龍造寺政家が病弱だったため、実際の国政は隆信の義弟で重臣である鍋島直茂が掌握した。天正18年(1590)には豊臣秀吉の命により、政家は隠居させられ、家督は嫡男の龍造寺高房が相続した。秀吉は高房に所領安堵の朱印状を与えたが、同時に鍋島直茂にも4万4000石、その嫡男である鍋島勝茂にも7000石の所領安堵を認めている。つまり鍋島氏は龍造寺氏の家臣でありながら、大名並の所領を秀吉から承認され、同時に国政の実権を握っていたこともそのまま承認されたといってよいのである。秀吉の朝鮮出兵が始まると、直茂と勝茂は龍造寺軍を率いて渡海している。秀吉の死後、覇者となった徳川家康も龍造寺氏を無視し、鍋島氏の肥前支配を承認していた。そのため、国主である龍造寺高房は名目上の国主という立場にあった。しかし、成長した高房はこの立場に絶望し、慶長12年(1607)3月3日、江戸桜田屋敷で妻を刺殺し、自らも自殺しようとした。しかし、家臣がこれを寸前で食い止め、医師が治療したため、高房の自殺は未遂に終わった。しかし高房の傷は思ったよりも深く、さらに妻の亡霊にも悩まされるようになり、次第に高房は精神を病んでいき、再び自殺を図ろうとした。このときに腹部の傷が破れて出血多量により、9月6日に死去したのである。息子の死にショックを覚えた父・政家ももともと病弱だったことから、10月2日に後を追うように病死した。これにより、龍造寺氏の本家は断絶したかに見えた。このため、龍造寺の分家である多久氏・須古氏・諫早氏などは高房の後継者として龍造寺本家を盛り立てた功臣・鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙した。幕府もこれを承認し、ここに鍋島氏を肥前の国主とする佐賀藩が正式に成立したのである。慶長18年(1613)には直茂に対して、幕府から佐賀藩35万7000石の所領安堵の朱印状が交付されている。無念の死を遂げた高房の遺体は、江戸で火葬された後、佐賀城下の泰長院に葬られた。ところがそれから、高房の亡霊が白装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡るようになったという噂が立つようになる。この話が発展して、高房がかつて飼っていた猫が化けて出て直茂・勝茂に復讐を企て、鍋島氏の忠臣によって最終的には退治されるという化け猫騒動の筋書きとなる。しかし、龍造寺本家は政家・高房の死により断絶したわけではなく、高房の子・龍造寺伯庵と高房の実弟・龍造寺主膳が生き残っていた。両者は慶長12年(1607)当時は若年のため、無視される形になっており、伯庵は直茂の命令で出家させられていたのである。寛永11年(1634)、伯庵と主膳は幕府に対して龍造寺家の再興を嘆願した。この訴訟は寛永19年(1642)まで続けられたが幕府は認めず、伯庵を会津藩の保科正之に預け、主膳は大和郡山藩に預ける処分を下し、事実上、龍造寺家再興の道は絶たれたのである。龍造寺から実権を奪った直茂は元和4年(1618)6月3日に81歳で亡くなった。このとき直茂は耳に腫瘍ができ、高齢ながら大往生とはならず激痛に苦しんだ上での半ば悶死であった。そのため、直茂の死は高房の亡霊のしわざではないかと噂された。



「平安京物語」12“薬子の変”(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。「上皇と天皇の争い」大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが

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「平安京物語」12“薬子の変”(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。「上皇と天皇の争い」大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。なお名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたものと考えられており、「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価がなされるようになり、2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。延暦25年(806年)、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位、平城天皇は弟の神野親王を皇太弟とした。これは平城天皇が病弱でその子供達も幼かった事を考えて、嫡流相続による皇位継承を困難と見た父・桓武天皇の意向があったともいわれている。大同4年(809年)4月、平城天皇は発病するが、病を叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考えた天皇は、禍を避けるために譲位を決意する。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は極力反対するが、天皇の意思は強く、同年4月13日に神野親王が即位する(嵯峨天皇)。皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立てられた。大同4年12月(810年1月または2月)、平城上皇は旧都である平城京へ移る。平城上皇が天皇の時に設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こる。平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成はこの対立を大いに助長した。しかも、薬子が任じられていた尚侍の職は、天皇による太政官への命令書である内侍宣の発給を掌っており、当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあったことから、場合によっては上皇が薬子の職権で内侍宣を出して太政官を動かす事態も考えられた。嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、同年6月には観察使を廃止して参議を復活した。このことは平城上皇を刺激する。二所朝廷の対立が深まる中で、同年9月6日に平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。このことは嵯峨天皇にとって思いがけない出来事であったが、ひとまず詔勅に従うとして、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命する。嵯峨天皇が信任している者を造宮使として平城京に送り込み、平城上皇側を牽制することが目的と考えられる。また、遷都の詔勅が発せられたことに人心は大いに動揺したという。嵯峨天皇は遷都を拒否することを決断する。9月10日、嵯峨天皇は使節を発して伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせる。その上で、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁の上で佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。嵯峨天皇は造宮使だった坂上田村麻呂を大納言に昇任させる。藤原冬嗣は式部大輔、紀田上は尾張守に任じられた。9月11日、嵯峨天皇は密使を平城京に送り若干の大官を召致した。この日、藤原真夏や文室綿麻呂らが帰京するが、平城上皇派と見られた綿麻呂は左衛士府に禁錮された。嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断をする。中納言・藤原葛野麻呂ら平城上皇方の群臣は極力これを諌めたが、上皇は薬子とともに輿にのって東に向かった。平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。田村麻呂は出発に当たってかつて蝦夷征討の戦友だった綿麻呂の禁錮を解くことを願い、綿麻呂は許されて参議に任じられる。この日の夜に仲成は射殺された。これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例[1]であり、これ以降保元元年(1156年)の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約346年間一件も無かった。平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、とても勝機がないと悟ってやむなく平城京へ戻った。9月12日、平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。



浪速史跡めぐり』善福寺(どんどろ大師)・JR玉造駅から西、真田山の上町台地の凹凸の丘陵の坂を下った所の角に善福寺がある。真言宗で本尊は弘法大師

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浪速史跡めぐり』善福寺(どんどろ大師)・JR玉造駅から西、真田山の上町台地の凹凸の丘陵の坂を下った所の角に善福寺がある。真言宗で本尊は弘法大師であるが本来は薬師如来と不動尊であったが戦災や戦国の戦乱で、この寺も点々としたらしく、狭い境内ではあるが由緒と歴史にその足跡が残っている寺である。創建は聖徳太子である。元和元年の夏の陣でその霊を弔うために「どんどろ大師」善福寺引き続き開創された、当初は鏡如庵大師堂といって、「浪華大師」巡りの道順に当たり、その賑わいは特に二十一日のお大師参りは「摂津名所図」にも記されている。江戸時代徳川四天王と言われた、大老土井利勝の孫の利位が大阪城に拝命を受け、この地の玉造の辺りに屋敷を構え厚く当庵の大師に帰依し、誰言うともなく「どんどろ大師」と云う様に成った。その後大坂夏の陣に廃仏毀釈で一時廃寺になったが、能勢の善福寺をこの地移し現代に至っている。境内には勝軍地蔵尊(青銅製)があり、大師堂に修行大師像があるが、修行大師には笠がないのは戦時中に供出したためと言う。*鏡如庵(どんどろ大師)は大坂夏の陣でこの辺りは真田幸村が真田丸を築き激戦地であった。その戦いで亡くなった戦死者の霊を弔うために「鏡如庵大師堂」と称して二十一日の大師の縁日に多くの参拝者があったという。

「神仏霊場巡り」道明寺天満宮・(梅の名所)学問の神、菅原道真を祭神とする道明寺天満宮は近鉄南大阪線は道明寺駅から歩いて

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「神仏霊場巡り」道明寺天満宮・(梅の名所)学問の神、菅原道真を祭神とする道明寺天満宮は近鉄南大阪線は道明寺駅から歩いて数分の所に鎮座する。この辺りは菅原氏の祖先の領地と云われ、もとは古墳造営に関わった土師氏の氏神が祀られていた。天穂日命は土師氏の先祖神である。道真の出身母体の菅原氏は東の石川左岸にかけて一帯に、氏神の他土師寺の氏寺も建立されていた。土師八嶋が聖徳太子の発願に応えて、自宅を喜捨てした寺で規模は東西320メートル・南北640メートルの広大境内の中に塔・金堂・講堂は一直線に並ぶ天王寺式の伽藍であったことが遺構で確認された。道真が大宰府に流される際に同寺の伯母覚寿尼に訪れ別れを惜しみ自分の姿を刻んで残したという。その後も道明寺と天満宮は一体となって栄えたが、戦国時代に兵火で焼失し、信長、秀吉の寄進と德川家からの一七四石寺領で安堵された。明治の神仏分離令後、寺と神社が別けられた。

「京都古社寺探訪」萬福寺・京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来である。

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「京都古社寺探訪」萬福寺・京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来である。
日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。
開山・隠元隆琦は中国明時代の万暦二十年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。
隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。隠元が招かれて来日するのは1654年(順治11年、承応3年)、63歳の時である。
当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺、興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。
隠元は長崎・興福寺の僧・逸然性融らの招きに応じて来日したものである。はじめ、逸然が招いた僧は、隠元の弟子である也嬾性圭という僧であったが、也嬾の乗った船は遭難し、彼は帰らぬ人となってしまった。
そこで逸然は也嬾の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。
隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退したが、日本側からたびたび招請があり、また、志半ばで亡くなった弟子・也嬾性圭の遺志を果たしたいとの思いもあり、ついに建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。
承応三年(1654年)、30名の弟子とともに来日した隠元は、はじめ長崎の興福寺、次いで摂津富田の普門寺に住した。
隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけている。
万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。
ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。
寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝七年(1679年)頃にほぼ完成した。

『戦国時代の群像』175(全192回)「毛利秀元」(1579~1650)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門長府藩の初代藩主

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『戦国時代の群像』175(全192回)「毛利秀元」(1579~1650)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門長府藩の初代藩主。毛利元就の4男・穂井田元清の長男。母は村上通康の娘・妙寿院。正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。子に光広、元知など。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。天正7年(1579年)11月7日、穂井田元清の長男として備中猿掛城にて生まれる。天正13年(1585年)、長く実子に恵まれなかった従兄である毛利輝元の養子となり、天正18年(1590年)に元服。天正20年(1592年)4月11日、肥前名護屋城に向かう途中で広島城に立ち寄った豊臣秀吉と面会、輝元の継嗣と認められ、豊臣姓・羽柴氏と偏諱の「秀」の字を与えられ[1]秀元と名乗る。文禄の役に参戦し、朝鮮に渡海。文禄2年(1593年)6月に宇喜多秀家・伯父の小早川隆景らと共に晋州城を攻略した(晋州城攻防戦)。慶長の役では病気の輝元に代わって毛利軍3万を率いて右軍の総大将となった。文禄4年(1595年)に輝元に松寿丸(後の秀就)が生まれると世嗣を辞退した。同年2月に秀吉の養女・大善院(姪、豊臣秀長の娘)と結婚している。慶長の役では、慶長2年(1597年)に従兄の吉川広家らと共に再度朝鮮に渡り、加藤清正、黒田長政、鍋島直茂らと朝鮮軍の籠もる黄石山城を陥落させた(黄石山城の戦い)後、全羅道、忠清道を平定。天安に陣していた時、稷山で黒田長政が明軍と交戦中との急報を受けると、即刻救援に駆けつけ明軍の背面より突撃して撃退した(稷山の戦い)。冬の到来を前に朝鮮の南岸地域に撤収して蔚山城の築城に加わっていたが、完成が目前となると、秀元は武器・兵糧を釜山に輸送し蔚山を引き払い帰国の準備をすすめていた。しかし秀元の去った後の蔚山城を明・朝鮮軍が攻撃、残留していた毛利軍の宍戸元続・桂孫六らが加藤清正らと共に食料備蓄のない籠城戦で窮地にたたされていたが、他の在鮮諸将と共にこれを救援し、明・朝鮮軍を大破した(蔚山城の戦い)。日本帰国後の慶長4年(1599年)に独立大名として別家を創設し、長門一国・周防吉敷郡及び父の遺領であった安芸佐伯郡を含めた合計17万石余を分知された。但し若年のため、安国寺恵瓊が後見人となっていた。関ヶ原の戦い時、毛利氏の運営は秀元及び恵瓊と吉川広家によって担われていた。毛利氏は西軍に属したが、輝元は西軍の総大将として大坂城に入っていたので、実際に関ヶ原へ赴いたのはこの3人であった。広家と毛利家家老の福原広俊は西軍の勝利を危ぶみ、東軍と密かに内通して「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と交渉していた。秀元自身には戦意があったとされるが、広家がそれを押し留めた。結果、毛利家の当主が傍観したため恵瓊・長宗我部盛親・長束正家など他の南宮勢も秀元が東軍に内通してるのではないかという疑心暗鬼にとりつかれ、自身らも傍観せざるを得なくなった。戦局が西軍の敗色濃厚となると戦わずに戦場を離脱したが、東軍の追撃を受ける。戦後、大坂城に撤退した秀元は立花宗茂と共に徹底抗戦を呼びかけたが、輝元はこれに応じず、城を退去してしまった。一方で、秀元は輝元の大坂入城時にはその行動を諌めており、開戦当初は徹底抗戦派ではなかったと考えられる。戦後、毛利一門は大減封されたが、輝元より長門国豊浦郡・厚狭郡に6万石を分知されて櫛崎城に移り長府藩主となり、東の周防国岩国領に封じられた吉川広家と並んで西の守りを任された。当初は輝元の信任と広家の後見を受けた福原広俊が本家の長州藩の政治を任されたが、藩政を仕切った広俊とは不仲で、慶長10年(1605年)に萩城築城中に起こった熊谷元直・天野元信殺害事件(五郎太石事件)に絡んで広家・益田元祥と和睦し、慶長18年(1613年)に継室として徳川家康の養女を娶り(正室の大善院は慶長14年(1609年)に死去)、同年に広俊と共に若年の秀就の後見を行い、大坂の陣にも参戦するなど江戸幕府から信頼を得ることにも尽力した。しかし一方で、他の家臣団に内密で輝元・秀就と共謀して内藤元盛(佐野道可)を大坂城に入城させ、それと知った広俊は広家宛の手紙で秀元を非難している。事件発覚後の慶長19年(1614年)に吉川広家は嫡男の広正に家督を譲って隠居、大坂の陣後の元和2年(1616年)に福原広俊も辞任、代わって秀元が秀就の名代として幕府との折衝を務め、老中・土井利勝と結んで藩政に積極的に関与していった。元和9年(1623年)4月20日に2代将軍・徳川秀忠から仕置を行うよう命じられ、9月23日に輝元が秀就に家督を譲って隠居、10月4日に正式に秀元の仕置も決定、益田元祥・清水景治らと共に長州藩の藩政を総覧している[5]。しかし、寛永7年(1630年)頃から秀就との間に軋轢が生じるようになる。対立の原因は秀元が宗主権を主張したり、嫡男・光広と秀就の娘の縁談を反故されたことなどが要因であった。不和は深刻化し、寛永8年10月5日に後見役を辞任、姻戚関係にある永井尚政に打診して本家とは別個に朱印状を賜ろうとしたり、寛永11年(1634年)には江戸城普請の手伝いを拒絶するなど秀就に反抗的な振る舞いを見せるようになった。ついには秀就の弟で婿の毛利就隆を誘って長州藩からの独立を画策し、同年閏7月に3代将軍・徳川家光による朱印状交付が行われると、朱印状を受け取り独立しようとして実現せず、幕府からの仲裁を受けている。秀元の宗家を軽んじた行状に激怒した秀就は秀元を処罰することも考えたが、秀元は御伽衆として将軍・家光と親密な関係にあったため、掣肘は容易でなかった。2年後の寛永13年(1636年)5月に幕府の仲裁で秀就と和解、晩年は江戸に住み、家光の御伽衆となる。慶安3年(1650年)閏10月3日、江戸で死去。享年72。


『歴史の時々変遷』(全361回)246“大坂夏の陣” 「大坂夏の陣」和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが

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『歴史の時々変遷』(全361回)246“大坂夏の陣”
「大坂夏の陣」和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。慶長20年3月15日(1615)、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。 4月1日、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出しようとする浪人を捕縛すること、小笠原秀政に伏見城の守備に向かうことを命じた。 4月4日、家康は徳川義直の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋に向かった。翌5日に大野治長の使者が来て豊臣家の移封は辞したいと申し出ると、常高院を通じて「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、4月6日および7日に諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。家康が名古屋城に入った4月10日、秀忠は江戸を出発している。4月12日、名古屋城にて徳川義直の婚儀が行われ、家康は18日に二条城に入った。このころ秀忠は藤堂高虎に対し、自分が大坂に到着するまで開戦を待つよう藤堂からも家康に伝えてくれと依頼している。4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。家康はこの軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、同時に道路の整備、山崎などの要所の警備を行うことを命じた。この二手の他、紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じている。5月5日、家康は京を発した。その際、自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたという。豊臣方では、4月9日に交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、4月12日に金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。また主戦派の浪人たちが埋められた堀を掘り返したりしている。 和議による一部浪人の解雇や、もはや勝ち目無しと見て武器を捨て大坂城を去るものが出たため、この時の豊臣家の戦力は7万8000に減少した。一方、大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断し、総大将の首を討つ機会のある野戦にて徳川軍との決戦を挑む事が決定された。 なおこの頃、織田有楽斎は大坂城を退去している。樫井の戦い、豊臣方は大野治房の一隊に暗峠を越えさせて、4月26日に筒井定慶の守る大和郡山城を落とし(郡山城の戦い)、付近の村々に放火。28日には徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちする。治房勢は、4月29日には一揆勢と協力しての紀州攻めを試みるが、先鋒の塙直之、淡輪重政らが単独で浅野長晟勢と戦い討死した(樫井の戦い)。その後、大野治長らは浅野勢と対峙しつつ、5月6日まで堺攻防戦を行う。道明寺・誉田合戦5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した道明寺・誉田合戦が起こる。寄せ集めの軍勢である豊臣方は緊密な連絡を取ることができず、後藤基次隊2,800は単独で小松山に進出したが、伊達政宗、松平忠明ら2万以上から攻撃を受け、基次は討死した。次いで到着した明石全登、薄田兼相ら3,600の兵も小松山を越えた徳川軍と交戦し、薄田兼相らが討死した。さらに遅れて真田信繁、毛利勝永ら12,000の兵が到着し、真田隊が伊達隊の先鋒片倉重長隊の進軍を押し止めた。しかし豊臣方は八尾・若江での敗戦の報を受け、残兵を回収して後退。幕府方も連続した戦闘に疲弊したため、追撃を行わなかった。八尾・若江合戦
同日、木村重成の6,000の兵と長宗我部盛親、増田盛次ら5,300の兵が、河内路から大坂城に向かう徳川本軍12万を迎撃した八尾・若江合戦が起こっている。まず長宗我部隊が霧を隠れ蓑に藤堂高虎隊5,000を奇襲し、藤堂一族その他多数の首を獲ったが、幕府方の援軍に阻まれ、後退中に追撃を受け壊滅。木村は藤堂隊の一部を破った後、井伊直孝隊3,200らと交戦の末に討死した。幕府方優勢で、大坂城近郊に追い詰められる。天王寺・岡山合戦5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した。天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣。これに対する幕府方の配置は、大和路勢および浅野長晟40,000を茶臼山方面に、その前方に松平忠直15,000が展開した。 天王寺口は本多忠朝ら16,200が展開し、その後方に徳川家康15,000が本陣を置いた。 岡山口は前田利常ら計27,500。その後方に近臣を従えた徳川秀忠23,000が本陣を置いた。正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は豊臣方の真田隊・毛利隊・大野治房隊などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。唯一戦線を維持した毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、5月7日深夜に大坂城は陥落した。その燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという。(大阪城陥落直後の1615年6月11日付の長崎の平戸オランダ商館の関係者の報告では、徳川家康側に赦免を得るために寝返った数名の大名が秀頼を裏切り城に火を放ち逃亡を図った。しかし逃亡は叶わず、その場で城壁から突き落とされて死亡したとされている。翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した。現在、大阪城天守閣で所蔵されている、自らも大坂の役に参戦した福岡藩主黒田長政が当時一流の絵師を集めて描かせた大作の屏風絵「大坂夏の陣図屏風」通称、「黒田屏風」(重要文化財)の左半分には、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。また、記録によれば、一万数千の首の内、偽首を取られるなど殺害された民衆が数多くおり、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したとされる。その悲惨さが語られている。


プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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