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京都七福神・:妙円寺・松ヶ崎大黒天・妙円寺(みょうえんじ)は、五山の送り火「妙法」で知られる松ヶ崎東山の麓にある日蓮宗の寺院。 

松ヶ崎大黒天
松ヶ崎2
京都七福神・:妙円寺・松ヶ崎大黒天・妙円寺(みょうえんじ)は、五山の送り火「妙法」で知られる松ヶ崎東山の麓にある日蓮宗の寺院。 1616年(元和2年)、日英による創建。 もとは本涌寺(現在の涌泉寺)内にあった日英の隠居所。 本尊の大黒天は、伝教大師最澄の作といわれ「松ヶ崎大黒天」の名で親しまれている。 1969年(昭和44年)1月、火災に見舞われたが、大黒天像は難を免れたことから「火中出現火伏守護の大黒天」としても信仰されている。 60日ごとの甲子(きのえね)の日には、大黒天像が開帳され多くの参拝者で賑わう。
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『戦国時代の群像』143(全192回) 「長束正家」(?~1600)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、

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『戦国時代の群像』143(全192回)
「長束正家」(?~1600)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の五奉行の一人。父は水口盛里(安芸守)といわれる。弟に直吉らがいる。
近江国水口岡山城主。本姓は大蔵氏という。別説にもともとは水口氏で天正年間、居城水口城が落城したため長束村に在し、その地名を取って長束を称したとの記録もある。熊本藩の侍帳の正家の子孫の項目には正家の父・盛里までを水口氏とし、正家以降を長束氏として記録している。
永禄5年(1562年)、水口盛里の長男として近江国栗太郡長束村で生まれたといわれる。初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると財政上不正があったと豊臣家より糾弾されたが、正家は帳簿を証拠として提出し、これに抵抗した。この後豊臣氏直参の家臣になった。
高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。天正14年(1586年)の九州平定、天正18年(1590年)小田原征伐では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍し、20万石の兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において米3万石を買占め小田原城を兵糧攻めにした。
支城の戦いでは家臣・家所帯刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有坂宮内、増田新次郎らが忍城攻めにおいて武功を立てている。
戦後には家臣であった弟の正隆が秀吉の直参に取り立てられている。文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。この間、天正14年(1586年)には本多忠勝の妹・栄子を正室に迎え、天正17年(1589年)には長男・半右衛門助信が誕生している。半右衛門には山中三十郎が家老として付けられた(『北野社家日記』)。
天正18年(1590年)正月13日には人質として上洛した徳川秀忠の出迎えの任に当たるなど、徳川家との関係も深かった。農村支配にも関与しており、文禄3年(1594年)2月には豊臣秀次とも相談の上、中川秀成の豊後入封に際し隣接する蔵入地代官太田一吉に協力を求めて戦乱によって荒廃した農村の再建、逃亡した農民の還住策を指示している。また、同時期に伏見城の造営にも参画している。
文禄4年(1595年)に近江水口城5万石を拝領し、五奉行の末席に名を連ねる。慶長2年(1597年)には12万石に加増され、官位も従四位下侍従に昇任した。
領内ではのちに家松山大徳寺となる浄慶寺に保護を加え、この縁故によって後年遺児が同寺に迎えられ三世門跡・還誉岌閑となる。蒲生秀行が減封された際には、松田秀宣らの蒲生浪人を召抱えた。
秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加するが、家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられないなど、功を奏しなかった。さらに息子と家臣が水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀っているとの噂が立ち、甲賀衆篠山景春の通報によって家康は城下を素通りした。
慶長5年(1600年)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。開戦当初には山崎家盛に欺かれ、池田輝政の妻子を大坂城に人質として抑留することに失敗している。初め陣代・家所帯刀、武者奉行・伴五兵衛らを将として伏見城攻めに兵を送り、家臣甲賀衆鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせることに成功、城を落城に導く功をあげた。
8月下旬には伊勢安濃津城を攻略する(安濃津城の戦い)。
しかし伊勢方面の戦いでは少数の敵船団を家康の本隊と誤認して退却する失態も犯している。この後、弟・直吉に水口岡山城の守備を任せて大垣城へと向かった。
関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡垂井町)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退した。このとき島津隊の撤退を助けるため道案内に家臣を遣わしたとも言われる。
戦場離脱後は水口城を目前に山岡道阿弥率いる軍勢の攻撃を受けて敗走、弟・玄春が捕らえられ、処刑されている。正家は松田秀宣の活躍で入城に成功するも、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束されるが城から出たところ欺かれ捕縛された。
このとき重臣・嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も入城した池田軍に捕縛されている。捕えられた正家は弟・直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹した。享年39という。
重臣6名も同日、近江日野で切腹させられた。首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという。地元古城山の阿迦之宮に霊が祀られる。

『歴史の時々変遷』(全361回)213“沖田の戦い” 「沖田畷の戦い」日本の戦国時代の天正12年3月24日(1584)に肥前島原半島(

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『歴史の時々変遷』(全361回)213“沖田の戦い”
「沖田畷の戦い」日本の戦国時代の天正12年3月24日(1584)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦い。九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。
龍造寺氏は少弐氏の被官から下克上で戦国大名となり、隆信の代には佐賀を本拠地として肥前国を統一する。さらに元亀元年(1570)の今山の戦いで大友宗麟軍を破り、勢いに乗って肥後半国、筑前、筑後、豊前の一部(長崎県、佐賀県、熊本県北部、福岡県)を獲得した。
天正6年(1578)に大友宗麟は日向に南征し、島津義久に大敗する(耳川の戦い)。この結果、大友家は多くの有力武将を失い、さらに大友庶家・家臣団の離反も相次いで大きく衰退する。そのため大友家は当時九州で成立していた九州三強から脱落し、耳川の戦いで大勝した島津家と、その合戦に乗じて大友領を侵食した龍造寺家の二強が争う時代となる。
天正9年(1581)、島津家は肥後に北上する[1]。これに対して龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生を派遣して島津方の赤星親隆を下し、肥後北部の山本郡の内古閑鎮房も降伏させた。
このため肥後北部の国人は龍造寺家に帰順するが、隆信は一方で筑後柳川の蒲池鎮並一族を小河信貴、徳島長房に殺害させるなどした。蒲池鎮並を誘殺したことは、諸将士の離反を惹き起こし、筑後衆の中では隆信に叛く者が出るにいたった。天正12年(1584年)3月19日、有馬晴信の背信を知った隆信は龍王崎から出陣した。
3月20日には島原半島北部の神代に上陸した。有馬晴信は八代にいた島津軍に援軍を要請する。
当時、島津家は肥後の平定に着手していたが、龍造寺軍の主力が島原に到達したとなると放置もしておけず、有馬に対して援軍を送り出した。ただ、島津軍の主力が動けば、衰えたとはいえ大友家が南下しかねず、相良義陽を戦死させた阿蘇惟光・甲斐宗運らの動きもあり、島津義久は大軍を島原に送る事はできず、弟の家久や頴娃久虎、新納忠元、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智らを大将にして送り出した。兵力は島津軍の5,000人にも満たなかった。
幸いだったのは島津軍の到着が3月22日と龍造寺軍の前日だった事であるが、龍造寺軍を悩ませた海の時化が島津軍の渡海をも遅らせ、またこれにより大軍を送れなかったのである。
一方の龍造寺軍では、鍋島信生が主君の隆信に対して島津軍を警戒するように諌めた。信生は長期持久戦に持ち込む事で島津の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言していたが、圧倒的な兵力を誇る隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れなかった。
島津・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な事から、晴信は島津の大軍の後詰を待つ後詰決戦を主張するが、家久は積極的な防衛策による龍造寺軍壊滅を策し、戦場は島原の北方にある沖田畷と定められた。
当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、前山と森岳城との間にある道も幅が大変狭かった。沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であった。
連合軍はこの畷を封鎖するように大木戸を、森岳城には柵を築いて防備を強化し、徹底的に守りを固めた。これらの防備は3月23日の夜までに完了したが、隆信の鈍重な進軍がもたらした幸運でもあった。
この時の連合軍の布陣は晴信を総大将に本陣は森岳城に置かれ、海岸線には伊集院忠棟ら1,000余、内陸側の大木戸には赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に控え、新納忠元ら1,000は前山の山裾に伏兵として潜んだ。
これに対して3月24日未明、龍造寺軍は沖田畷に進軍し、山手を鍋島信生が、浜手を隆信の次男・江上家種と後藤家信らが、中央は隆信本隊が布陣して沖田畷を突破し、森岳城を攻撃することとした。隆信は森ヶ岳城を俯瞰する小山に上り、敵方の陣営を一望してその数の少ないことことを知り容易に勝利を得ることが出来ると驕慢の態度を示した。
辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まり、 島津方は、龍造寺軍をおびき寄せる計略を用いたため応戦をせず、島津義久は敗北を装い退却した。
追撃してきた龍造寺軍に弓や鉄砲を乱射した為、先陣は崩れ、これを助けようとした二陣も左右が深沼で細道のため思うように進めずに難儀をしていた。
隆信は使者に様子を見させに行ったが、この使者が命を惜しまず攻めるようにと、隆信から命ぜられていないことまで触れて回ったため、諸将はいきり立ち、無謀な攻撃を仕掛けたところ、それまで潜んでいた島津方の伏兵が弓、鉄砲を射掛けた。
不意をつかれた龍造寺軍は深田に入り込んだため射殺されていった。 末の初刻(午後2時)、隆信は床机に腰掛けていたが、島津方の川上忠堅に見つかってしまい、忠堅に切りかかられて隆信は首を落とされた。こうして、沖田畷の合戦は寡兵の連合軍の勝利に終わった。


“日本名僧・高僧伝”86・景徐周麟(けいじょしゅうりん、永享12年(1440年)- 永正15年3月2日(1518年4月11日))は、室町時代後期の臨済宗の僧。父は大舘持房、母は赤松則友の娘。諱は周麟。道号は景徐。

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“日本名僧・高僧伝”86・景徐周麟(けいじょしゅうりん、永享12年(1440年)- 永正15年3月2日(1518年4月11日))は、室町時代後期の臨済宗の僧。父は大舘持房、母は赤松則友の娘。諱は周麟。道号は景徐。

別に宜竹・半隠・対松。幼い時に京都相国寺の用堂中材に師事して出家し、長じてその法を継いだ。応仁の乱の際には難を避けて近江永源寺に身を寄せていた時期もある。
長享元年(1487年)に等持寺に住み、延徳2年(1490年)に遣明使の正使の命を受けたがこれを辞退している。
明応4年(1495年)、相国寺に住し、翌5年(1496年)に3代将軍足利義満の檀那塔である鹿苑院に移り、永正5年(1508年)には相国寺に戻った。
晩年は相国寺内に慈照院を建てて退隠した。

『浪速史跡めぐり』持明院・大阪府大阪市天王寺区生玉町にある真言宗御室派の仏教寺院。

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『浪速史跡めぐり』持明院・大阪府大阪市天王寺区生玉町にある真言宗御室派の仏教寺院。
応永年間(1394年~1427年)の紛争で旧記を失い、創立の年月日は不詳。
慶長二年(1597年)宥楽の中興。宝暦五年(1755年)檀家と協力して10世覚苑が再建。
当寺は田能村竹田が大坂へ来た折の宿坊で、浦上玉堂も暫く同宿し、竹田の名画を多く所蔵していたが戦災で失った。
『摂津名所図会』に「金毘羅権現は京師御室仁和寺宮より御寄附にして当寺の鎮守とす」と、大坂三金毘羅の上の金毘羅を祀っていた。今も石燈籠に金毘羅大権現の名が残っている。

「神仏霊場巡り」水無瀬神宮・大阪府三島郡島本町にある神宮。 旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る

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「神仏霊場巡り」水無瀬神宮・大阪府三島郡島本町にある神宮。
旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。創建は後鳥羽天皇の離宮水無瀬殿の跡に建立された。
承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240年)、水無瀬信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。
明応3年(1494年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀨宮の神号を奉じた。
境内には、環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。江戸時代まで仏式で祀られていたが、明治時代に神式に改められ、水無瀨宮に改称した。
後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀した。
明治6年(1873年)に官幣中社に、昭和14年(1939年)に官幣大社に列格し、水無瀬神宮と改称された。



「神仏霊場巡り」東大寺・奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。金光明四天王護国之寺)ともいい、奈良時代に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。

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「神仏霊場巡り」東大寺・奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。金光明四天王護国之寺)ともいい、奈良時代に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西二つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、二度の兵火で多くの建物を焼失した。
現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の十八世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。
「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の六〇余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。
八世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平五年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。
一方、正史『続日本紀』によれば、神亀五年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門 - 中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。
天平十七年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。
東大寺は、近隣の興福寺と共に治承四年(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。
この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)であった。

『戦国時代の群像』142(全192回) 秋月種長(1567~1614)安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。

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『戦国時代の群像』142(全192回)
秋月種長(1567~1614)安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。日向高鍋藩の初代藩主。永禄10年(1567年)2月7日、筑前の戦国大名である秋月種実の長男として生まれる。
天正14年(1586年)の豊臣秀吉の九州征伐では父と共に豊臣軍と戦ったが、敗れて父と共に降伏した。このとき、父が秀吉に対して剃髪して謝意を示し、さらに隠居したため、家督を継いで当主となる。
しかし間もなく、秀吉の命令で日向高鍋3万石に減移封された。その後、豊臣政権下では文禄・慶長の役に出陣し、慶長3年(1598年)の蔚山城の戦いで功績を挙げた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して大垣城を守備していたが、関ヶ原の本戦で西軍が壊滅した直後の9月17日、水野勝成の進めで東軍に内応し、同じく籠城していた弟の高橋元種と相良頼房を誘って熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統父子らを城中で殺害して降伏。
23日には守将の福原長堯は大垣城を開城して東軍に明け渡した。これによって徳川家康から所領を安堵され、高鍋藩の初代藩主となった。種長には男子がいなかったため、長野鑑良の息子で種長の甥にあたる種貞を婿養子として迎えた。
だが、種貞が病弱であったため廃嫡し、種貞と娘オチョウの間に誕生した外孫の種春を後継者とした。このため、これを不満に思う家臣との間に確執が生じたという。慶長19年(1614年)6月13日に死去した。享年48。家督は種春が継いだ。



「九州平定」天正14年(1586)7月から同15年(1587)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある。

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「九州平定」天正14年(1586)7月から同15年(1587)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある。
この九州平定については呼称が複数見られ、豊臣政権による九州侵攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」と呼ばれることもあれば、織豊政権の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。開始時期について、小和田哲男は、年表などではこの戦役が天正15年(1587年)に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年3月1日、島津義久の降伏が4月21日なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている。
そして、前年(1586年)段階における秀吉側の立役者は黒田孝高であったとしている(後述)。戦国時代後半の九州は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある。
そのなかから、薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた。豊後の大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国、北陸、山陽、山陰、四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。これを受け、関白となった秀吉は、天正13年(1585)10月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。
しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前織田信長と近衛前久の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた。
この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している。
さらに島津氏の当主島津義久は天正14年(1586)1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明した。
3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった。
天正14年4月5日、大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している。秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元・吉川元春・小早川隆景などの中国の大名、あるいは長宗我部元親・十河存保などの四国の大名を用いようとした。
秀吉が天正14年4月10日付で毛利輝元にあてた覚書には、城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、西海道にいたる道路の修造、および赤間関への兵糧蔵の建造を命じている。
天正13年(1585)2月、毛利輝元の庇護を受けて備後国の鞆(鞆幕府)に滞在していた征夷大将軍足利義昭は島津義久を九州の「太守」に任じて帰洛時の援助と大友攻めを命じており、義久はこれに応じている。
島津氏は九州統一の総仕上げとして、大友氏の所領であった豊前、豊後、および筑前への侵攻を開始した。島津氏の軍事行動について、日本史学者池上裕子は「島津は自力で九州の殆どを平定し、その実績を秀吉に認めさせようと考えた」ものであるとしている。
天正14年(1586)3月、秀吉は島津氏の使者鎌田政近に対し、島津氏が占領した領地の殆どを大友氏に返還する国分案を提示した一方、4月には毛利輝元に対し、九州攻めのための人員・城郭・兵糧などの準備を指示した。また、仙石秀久と長宗我部元親らを豊後に派遣して大友氏に加勢させ、8月には大友宗麟・義統の父子と立花宗茂に書状を送り、黒田孝高・宮木豊盛らの豊前出陣を伝えた。
秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍は1586年(天正14)6月、筑前への侵攻を開始した。
6月18日、島津義久みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代に到着した。そして、島津忠長・伊集院忠棟が先陣をつとめ、これに、島津忠隣・新納忠元・北郷忠虎・川上忠堅らがつづくかたちで大友方の筑紫広門が守る肥前国勝尾城(佐賀県鳥栖市河内町)を攻めた。7月6日、筑後川をはさんだ筑後国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城を攻略し、筑紫晴門の守る肥前鷹取城を陥落させて晴門を討ち取った。
7月10日には勝尾城も開城したが、同じ日、秀吉は島津氏に対し、討伐の軍をさしむけることを決定した。
秀吉は九州国分令を受け入れた大友宗麟と毛利輝元とに対し、国分令の執行を命令し、その検使として先ず黒田孝高と宮城堅甫、安国寺恵瓊を任じた。
か讃岐国高松城主の仙石秀久、土佐国岡豊城主の長宗我部元親にも軍勢を率いての九州渡海を命じている。
一方、島津軍は7月12日に本陣を筑前天拝山に移し、高橋紹運の守る筑前岩屋城、紹運長男で19歳の立花宗茂の守る立花山城、紹運次男で13歳の高橋統増の守る宝満山城を攻撃目標に定めた。
7月13日以降、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の強い抵抗によって攻めあぐねた。立花宗茂は立花山城への合流を勧めたが、父紹運はわずか700名の兵によって島津勢をひきつけ、これを持ちこたえて秀吉の援軍を待つべしと主張した。
島津軍は、7月27日にようやく岩屋城を陥落させたものの、上井覚兼は負傷、死者数千名の損害を出すという大誤算であった。大友方は、紹運が自刃、千余名にふえた城兵はすべて討死という壮絶な戦いであった。
島津勢は8月6日には宝満山城も陥落させたものの、立花山城については立花宗茂の守りが堅固でなかなか攻め落とせなかった。
攻め手の将である島津忠長と伊集院忠棟は宗茂を寝返らせるよう降伏勧告をおこなったが、宗茂がこれを断り調略が奏功しないなか、毛利軍が長門国赤間関まで進軍したとの報に接した。そこで8月24日、島津勢は、立花城攻めをあきらめて包囲を解き、立花城近くの高鳥居城に星野鎮胤・星野鎮元はじめ押さえの兵を割いて撤退を開始した。
こののち、宗茂は翌8月25日に高鳥居城を奪取、8月末までには毛利先遣軍とも連携して島津軍を追い、岩屋城、宝満山城を奪還した。

“日本名僧・高僧伝”85尋尊(じんそん、永享2年8月7日(1430年8月25日)- 永正5年5月2日(1508年5月31日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。

尋1
尋2
“日本名僧・高僧伝”85尋尊(じんそん、永享2年8月7日(1430年8月25日)- 永正5年5月2日(1508年5月31日))は、室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。
父は一条兼良。母は中御門宣俊の娘。興福寺180世別当。大乗院第20代門跡。永享10年(1438年)室町幕府から罪を得て去った経覚のあとを受けて大乗院に入り、以後70年間在院した。
同12年(1440年)に得度。維摩会研学竪義(ゆいまえけんがくりゅうぎ)を遂げ、少僧都・大僧都を経て僧正に任じられ、康正2年(1456年)興福寺別当に就任した。
のち法務に任じられ、奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任した。応仁の乱(1467年-1477年)では父兼良の日記『藤河ノ記』を兵火から守った(『群書類従』所収)。また、大乗院に伝わる日記類を編纂し、大乗院日記目録を作成した。
また見聞したことを多くの記録に書き記したが、その日記「尋尊大僧正記」は興福寺に関することだけではなく、この時代を知る上での必須の資料である。
この日記と後に門跡を務めた政覚・経尋の日記をあわせて『大乗院寺社雑事記』と呼び、室町時代研究の根本史料の一つとなっている。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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