史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

「神仏霊場巡り」生田神社・神戸市は三宮の中心街に位置する生田神社の後ろの山は生田の森と言って平安時代には皇族や貴族に親しまれた。

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「神仏霊場巡り」生田神社・神戸市は三宮の中心街に位置する生田神社の後ろの山は生田の森と言って平安時代には皇族や貴族に親しまれた。
祭神の稚日女尊は日本神話では、高天原の斎服殿で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。
または天照大神の妹と言う説もある。この社の由来については神功皇后が凱旋から難波に向かっていた際に神功皇后の船が進まなくなって、務古水門に還って占った所、天照大神の神託があって、それに従い稚日女尊が「活田の地に祀られた』に由来する。

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淡路島七福神めぐり/弁財天・智禅寺・弁財天は河川の流れる音の“音楽の神

智禅寺 (4)
智禅寺 (6)
淡路島七福神めぐり/弁財天・智禅寺・弁財天は河川の流れる音の“音楽の神”音律が狂うと聞きつらく、言葉使いも
なにげない言葉使いにも人を傷つけたり励ましたり思いやる知恵の言葉が幸せ生むものです。
智禅寺の由来は本尊大日如来像を安置し、仏法有縁の修行道場として開かれた。
脇侍に祭祀する地蔵菩薩像には太古の歴史がしのばれる。

『戦国時代の群像』136(全192回) 「吉川広家」(1561~1625)戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。周防国岩国領初代領主

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吉川2
『戦国時代の群像』136(全192回)
「吉川広家」(1561~1625)戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将。周防国岩国領初代領主[1]。毛利氏の家臣。
永禄4年(1561年)11月1日、吉川元春と新庄局の三男として生まれ、元亀元年(1570年)、父と共に尼子勝久の討伐戦で初陣する。
幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残っている。
また、当初相続していた吉川氏一族の宮庄氏の所領が少ないことを理由として、天正8年(1580年)から天正10年(1582年)にかけて石見小笠原氏側からの養子縁組要請に乗って小笠原長旌の養子になろうとしたが、毛利輝元の猛反対を受けて破談となっている。
天正9年1月14日(1581年2月17日)、兄の元長から新たに仮名を与えられ、仮名を「次郎五郎」から「又次郎」と改める。
天正11年(1583年)9月、織田信長の死後に天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)の元へ、叔父・小早川元総(小早川隆景の養子)と共に森重政・高政兄弟との交換条件として人質として差し出された。当初、元春は隠居後の相手として広家を近くに置きたかったが、毛利家の安泰のためにと人質として大坂に向かわせた。
同年10月3日(1583年11月17日)、大坂城において秀吉と謁見。小早川元総が秀吉に寵愛され豊臣家の大名として取立てられたのに対して、広家はすぐに大坂から毛利家に帰されており、同年11月には安芸へ帰国している。
帰国した広家は、上洛の労をねぎらう輝元より隠岐国を与えられた。天正14年(1586年)11月に九州平定従軍中の(身分上は隠居の)父・元春が、次いで翌天正15年(1587年)6月に同じく従軍中で吉川家当主である長兄の元長が相次いで死去したため、吉川氏の家督を相続し居城日野山城などの所領も継承する。
さらに同年9月2日に毛利輝元から、毛利氏の祖先・大江広元の諱から「広」の一字書出を与えられ、「経言」から「広家」と改名した。
また同年に秀吉の命で肥後国人一揆鎮圧のため出陣している。秀吉からも元春・元長死後の毛利氏を支えるその手腕を高く評価され、天正16年(1588年)7月25日、豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、豊臣広家として従五位下に叙され、侍従に任官。
同年8月2日には従四位下に昇叙し、侍従如元。天正16年(1588年)10月には宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)で秀吉の養女となった容光院を正妻に迎え、形式上は秀吉の娘婿となった。しかし、僅か2年後の天正19年(1591年)春に弱冠20歳ほどの若さで容光院は病死し、以後、広家は正妻を迎えず側室を置くのみにとどめ、容光院の菩提を弔った。なお、人質として出された広家の娘は一度も秀吉に御目見えを許されていない。
天正19年(1591年)に秀吉の命により、末次元康の居城であった月山富田城に入るよう命じられ、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ14万石を支配することとなった。
文禄・慶長の役にも出陣し、しばしば毛利家の別働隊を指揮し、碧蹄館の戦いなども参戦し功を挙げて、秀吉から日本槍柱七本の1人と賞讃された。
第一次蔚山城の戦いでは籠城する加藤清正の救援に赴いて蔚山倭城を包囲した明将・楊鎬率いる明・朝鮮軍を撃退する功を立てた、この戦に広家が真っ先に進み出て明軍に向かって突撃し、続いて総勢が一度に突撃した、そして明軍の一隊の逃走先に進み退路を寸断すると、その方向へ明兵は逃げられなくなり、別方向に逃げた。この奮戦ぶりも清正からの賞讃も得た。
慶長2年(1597年)に叔父の小早川隆景が亡くなると、毛利家当主の毛利輝元から毛利秀元と共に毛利氏を支えるよう要請されている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が石田三成、安国寺恵瓊らによって西軍の総大将とされた(広家は徳川家康率いる東軍に加勢するよう提言したが、三成らの裏工作で広家が知らないうちに輝元が担ぎ出されたとされる)。
外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており、主家に背いても東軍加担を主張する広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべきとする恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされる。
しかし、あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で朝鮮の役以来の友人である黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける。
一方で、安濃津城攻略戦では主力として奮戦し長政が一時顔色を失う局面もあった。さらに9月14日、関ヶ原決戦前日にも広家は福原・粟屋の両重臣の身内2人を人質として送り、合わせて毛利の戦闘不参加を誓う書状を長政に送っている。
同日付の本多忠勝と井伊直政が広家・福原広俊に宛てた連署起請文では、9月15日の本戦には西軍として参加したものの、家康に内通していた広家は南宮山に布陣、総大将の毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。
あくまで西軍に加勢しようとする恵瓊や長宗我部盛親、長束正家の使者が来訪するが、広家は霧の濃さなどを理由に出撃を拒否、秀元にも「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。結果は家康率いる東軍勝利となり、毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった。
合戦直後には長政に使者を立て書状を送っている。9月17日には長政と福島正則の連署で、「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」旨の書状が大坂城の輝元に送付され、広家としてはこれで毛利家も安泰と考えていた。
10月2日になって黒田長政から以下の内容の書簡が届いた。毛利宗家の本領安堵は反故とされ、その後、広家には周防・長門の2ヶ国を与えるとの沙汰があった。広家はこの沙汰に対して、毛利本家存続のために家康に以下の内容の起請文を提出した。
広家のこの起請文に対し家康は10月10日になって、輝元に対し広家に与えられるはずであった周防、長門の2ヶ国を毛利宗家に安堵すること、毛利輝元・秀就父子の身命の安全を保障する、旨の起請文を発行した。広家の行動そのものは合戦前の7月15日に秀元や安国寺恵瓊の方針に不安を抱く福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直ら重臣によって秘かに行われた会議の結果を受けたものであるが、移封後は毛利家の家政の第一線から退くことになる。毛利宗家では関ヶ原後、安芸国ほか山陽・山陰8か国112万石から防長2か国29万8千石への減封による減収を補うため、領内の徹底した検地に着手するが、山代慶長一揆、吉見広長の反乱など、減封に伴う混乱が起こっている。
慶長15年(1610年)に毛利宗家(長州藩)は幕府の承認を得て、36万9千石に高直しが認められた。既に豊臣政権において独立した大名として認められていた秀元は長府家の家格上昇を図りながら藩政運営を行うことになり、対立関係にあった吉川家の勢力削減を目論んだ。元和の一国一城令を理由とした岩国城を破却などもこうした秀元の政策に基づくところが大きい。
こうした秀元の方針に対して広家は表立っては沈黙していたものの、福原広俊らと共に秀元への対抗姿勢を示している。秀元は徳山藩主であった秀就の弟・毛利就隆を取り込んで秀就に反抗的な態度を取り続け、それに対抗すべく秀就は広家を味方にしていた。
もっとも、元就時代より吉川家は庶流の筆頭として家臣団を統率するのが役割であった。一方、一度は宗家の後継となった秀元の長府毛利家がその経緯を盾に、他の分家との差別化と家格の上昇を図って宗家に準じた地位を確保しようとした側面がある。実際、輝元や広家の死後の寛永8年(1631年)に秀元はその専横を非難されて長州藩執政の地位を失って失脚し、後任の執政に就いたのは広家の子・広正であり、広正の正室に輝元の娘・竹姫を娶ったのは移封後のことである。
広家は家督を広正に譲って隠居した後も岩国領の実権は握り続け、元和3年(1617年)には188条にも及ぶ領内の統治法を制定するなど岩国の開発に力を注ぎ、実高10万石(最盛期には17万石とも)とも言われる岩国領、そして現在の岩国市の基礎を築いた。寛永2年(1625年)9月21日に死去。享年65。


『歴史の時々変遷』(全361回)207““秀吉の九州平定“ 「秀吉の九州平定」天正14年(1586)7月から同15年(1587)4月にかけて行われた、羽柴秀吉

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『歴史の時々変遷』(全361回)207““秀吉の九州平定“
「秀吉の九州平定」天正14年(1586)7月から同15年(1587)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。
秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある。この九州平定については呼称が複数見られ、豊臣政権による九州侵攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」と呼ばれることもあれば、織豊政権の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。
なお、九州地方の各県・市町村の公式URLや公刊された県史・市町村史では「(秀吉の)九州平定」の用語が比較的多く用いられるのに対し、1983年(昭和58年)刊行の吉川弘文館『国史大辞典』では「九州征伐」(今井林太郎)が使用されている。
大日本帝国陸軍参謀本部が編集した「日本戦史」においては、殆どの戦争に「役」の語を当てており、本項も「九州役」としている。「役」は、賦役などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、戦争のために人民を徴発し、人びとが軍事的に徴用されるところから「戦」の意で「役」の呼称が生まれたものである。
開始時期について、小和田哲男は、年表などではこの戦役が天正15年(1587年)に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年3月1日、島津義久の降伏が4月21日なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている。
そして、前年(1586年)段階における秀吉側の立役者は黒田孝高であったとしている(後述)。戦国時代後半の九州は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある。
そのなかから、薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた。
豊後の大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国、北陸、山陽、山陰、四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。これを受け、関白となった。  秀吉は、天正13年(1585)10月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前織田信長と近衛前久の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた。
この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している。さらに島津氏の当主島津義久は天正14年(1586)1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明した。
3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。
島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった。
天正14年4月5日、大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している。秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元・吉川元春・小早川隆景などの中国の大名、あるいは長宗我部元親・十河存保などの四国の大名を用いようとした。
秀吉が天正14年4月10日付で毛利輝元にあてた覚書には、城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、西海道にいたる道路の修造、および赤間関(山口県下関市)への兵糧蔵の建造を命じている。
天正13年(1585年)2月、毛利輝元の庇護を受けて備後国の鞆(鞆幕府)に滞在していた征夷大将軍足利義昭は島津義久を九州の「太守」に任じて帰洛時の援助と大友攻めを命じており、義久はこれに応じている。島津氏は九州統一の総仕上げとして、大友氏の所領であった豊前、豊後、および筑前への侵攻を開始した。
島津氏の軍事行動について、日本史学者池上裕子は「島津は自力で九州の殆どを平定し、その実績を秀吉に認めさせようと考えた」ものであるとしている。
天正14年(1586)3月、秀吉は島津氏の使者鎌田政近に対し、島津氏が占領した領地の殆どを大友氏に返還する国分案を提示した一方、4月には毛利輝元に対し、九州攻めのための人員・城郭・兵糧などの準備を指示した。
また、仙石秀久と長宗我部元親らを豊後に派遣して大友氏に加勢させ、8月には大友宗麟・義統の父子と立花宗茂に書状を送り、黒田孝高・宮木豊盛らの豊前出陣を伝えた。秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍は1586年6月、筑前への侵攻を開始した。
6月18日、島津義久みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代に到着した。そして、島津忠長・伊集院忠棟が先陣をつとめ、これに、島津忠隣・新納忠元・北郷忠虎・川上忠堅らがつづくかたちで大友方の筑紫広門が守る肥前国勝尾城(佐賀県鳥栖市河内町)を攻めた。
7月6日、筑後川をはさんだ筑後国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城を攻略し、筑紫晴門の守る肥前鷹取城(鳥栖市山浦町中原)を陥落させて晴門を討ち取った。
7月10日には勝尾城も開城したが、同じ日、秀吉は島津氏に対し、討伐の軍をさしむけることを決定した
。秀吉は九州国分令を受け入れた大友宗麟と毛利輝元とに対し、国分令の執行を命令し、その検使として先ず黒田孝高と宮城堅甫、安国寺恵瓊を任じた。
ただし、秀吉は国分執行が順調に進まない場合も想定して、輝元・吉川元春・小早川隆景の毛利勢のほか讃岐国高松城主の仙石秀久、土佐国岡豊城主の長宗我部元親にも軍勢を率いての九州渡海を命じている。
一方、島津軍は7月12日に本陣を筑前天拝山(福岡県筑紫野市)に移し、高橋紹運の守る筑前岩屋城(福岡県太宰府市太宰府)、紹運長男で19歳の立花宗茂の守る立花山城(福岡県糟屋郡新宮町立花)、紹運次男で13歳の高橋統増(のちの立花直次)の守る宝満山城(太宰府市北谷)を攻撃目標に定めた。
7月13日以降、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の強い抵抗によって攻めあぐねた。
立花宗茂は立花山城への合流を勧めたが、父紹運はわずか700名の兵によって島津勢をひきつけ、これを持ちこたえて秀吉の援軍を待つべしと主張した。
島津軍は、7月27日にようやく岩屋城を陥落させたものの、上井覚兼は負傷、死者数千名の損害を出すという大誤算であった。大友方は、紹運が自刃、千余名にふえた城兵はすべて討死という壮絶な戦いであった。
島津勢は8月6日には宝満山城も陥落させたものの、立花山城については立花宗茂の守りが堅固でなかなか攻め落とせなかった。
攻め手の将である島津忠長と伊集院忠棟は宗茂を寝返らせるよう降伏勧告をおこなったが、宗茂がこれを断り調略が奏功しないなか、毛利軍が長門国赤間関(山口県下関市)まで進軍したとの報に接した。
そこで8月24日、島津勢は、立花城攻めをあきらめて包囲を解き、立花城近くの高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町上須恵)に星野鎮胤・星野鎮元はじめ押さえの兵を割いて撤退を開始した。
こののち、宗茂は翌8月25日に高鳥居城を奪取、8月末までには毛利先遣軍とも連携して島津軍を追い、岩屋城、宝満山城を奪還した。



“日本名僧・高僧伝”81・真盛(しんぜい)(1443―1495)室町時代の僧。天台真盛宗の祖。伊勢(いせ)国(三重県)の人。

真盛1
真盛2
“日本名僧・高僧伝”81・真盛(しんぜい)(1443―1495)室町時代の僧。天台真盛宗の祖。伊勢(いせ)国(三重県)の人。
14歳で出家してから台密を学び、1461年(寛正2)19歳で比叡山(ひえいざん)に登り、とどまること20余年、ことごとく学び尽くす。
1483年(文明15)には黒谷青竜寺に入り、日課として念仏六万遍を勤める。1485年には伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)から源信の『往生要集(おうじょうようしゅう)』を授かる夢をみ、これに傾倒。
翌年源信とゆかりのある西教寺(さいきょうじ)に入り、戒と念仏の一致を称揚し、ここに天台宗真盛派の基礎を開き、西教寺の復興に力を尽くした。
また各地に戒と念仏の一致を説き広め、1495年(明応4)伊賀(三重県)西蓮寺(さいれんじ)の念仏法会(ほうえ)の途中に寂した。1506年(永正3)円戒国師の号を賜る。



『浪速史跡めぐり』阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)・JR放出駅前を北側に道の左手に木造の門の重厚な社殿の「阿遅速雄神社」がある

あ阿遅速雄神社4
あ阿遅速雄神社2
『浪速史跡めぐり』阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)・JR放出駅前を北側に道の左手に木造の門の重厚な社殿の「阿遅速雄神社」がある。社伝によれば、祭神の阿遅金且高日子根神は摂津国に降臨し土地を拓き、民に農耕の業を授けたと伝わる。
この地の守護神として祀られたという。
起源は、668年(天智天皇7年)に発生した草薙剣盗難事件の際、新羅の僧・道行が草薙剣を持って船で新羅に逃げ帰る時、突然の嵐に巻き込まれ。
これを神罰と恐れをなして、途中の河口に放り投げられ、その後、草薙剣は里人により拾われ、この神社に一時納められたのが創始と伝わる。
そして、草薙剣は無事に熱田神宮に返還されたと伝わる。
門の脇に石燈篭があってこの辺りは伊勢神宮への浪速の基点であった碑が建っている。
元々放出駅から北に延びる道は中高野街道で曲がりくねっている。
江戸中期にお伊勢詣りが盛んな頃、「えーいじゃないか、えーじゃないか」と踊り狂っていた頃があった。そんな意味の解説の掲示板がある。
又境内のこの神社の由来について、祭神は「阿遅鉏高日子根神」である、多分味耜高彦根神(一言主神)と同じと思われる。
もともと式内社で記述にあったが江戸期に式内社の目印になる式内社らしきところに目印になる石碑をたてた。
社号の裏に「放出村」と刻まれている。境内には樹齢800年はあろうかと思われる大木楠がある、この楠を見れば想像がつくが詳しい阿遅速雄神社の由来は分からない。

「二十二社巡り」山城国一ノ宮・賀茂御祖神社・主祭神・玉依姫命・賀茂建角身命  京都府京都市左京区下鴨泉川町59・式内社・山城国一ノ宮・二十二社・旧官幣大社・

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下賀茂神社3
「二十二社巡り」山城国一ノ宮・賀茂御祖神社・主祭神・玉依姫命・賀茂建角身命
 京都府京都市左京区下鴨泉川町59・式内社・山城国一ノ宮・二十二社・旧官幣大社・ユネスコ「世界遺産」に登録されている。下賀茂神社も上賀茂神社同様賀茂氏の氏神を祀る神社である。
祭神祀る社殿としては、東殿には賀茂皇大神・玉依媛命。西殿には賀茂建角身命が祀られている。
何と言っても京都三大祭りの「葵祭り」で古式豊かな平安絵巻の舞台でもある。上賀茂神社の賀茂別雷命の母が玉依姫命、玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀る為、下賀茂神社の社名が「賀茂御祖神社」と呼ばれている。
社伝に依れば神武天皇時代に本社の重義たる御蔭祭りの奉仕される摂社の地に降臨されたとする。
本社は天平年間に賀茂神社(上賀茂神社)から分立したとする説がある。社名が示す通り鎮座の別雷神の母神、外祖父を祀り、代々子孫の賀茂一族が社家として他家を交えず明治の新制度まで引き継いだ。
奈良時代より神威は高く、欽明天皇御世山城国をして祭を行しめたと言う。延暦十三年(794)正二位。桓武天皇の親拝があった。平城天皇の御世に勅祭とし正一位に昇格した。『延喜式』に依れば名神大社、月次、相嘗、新嘗など祈願奉幣が有った。
山城一ノ宮として朝野の崇敬厚く、二十二社の内上七社に入り、豊臣秀吉からは五百四十石の朱印を受けた。
境内には末社・摂社が点在し、河合神社・式内社(名神大社)鴨長明所縁の社がある。その他、出雲井於神社。三井神社・賀茂波爾神社・御蔭神社・日吉神社・貴布祢神社などがある。
 また八咫烏は賀茂建角身命の化身と言われ境内には「糺(ただす)の森」みたらし池がある。
上賀茂・下賀茂神社も成り立ちが同じであるが、天平年間に分離されたと言われ、弘仁元年(810)以来斎院が置かれて、皇女が斎王として賀茂社に置かれた。
★『古事記』に出てくる神として、賀茂建角身命は八咫烏の化身とされ、神武天皇の東征で大和に向かう熊野で危機を救った金鵄八咫烏として崇められている。
賀茂(かも)建(つ)角(み)身命(みこと)は日本神話に出てくる神で、山城の賀茂氏(賀茂県主)の祖師である。賀茂御祖神社(下賀茂)の祭神である。
『新選姓氏録』に依れば賀茂建角身命は神魂命の孫である。また神武天皇の東征の際天照大神・高木神の命を受けて日向の曾の峰に天下り、大和は葛木山に至り、八咫烏に化身をして神武天皇を先導した。
その後『山城風土記』には、大和から葛木山から山代の岡田の賀茂に至り、高野川と鴨川の合流点に鎮まった。賀茂建角身命には二柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主になる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神を床の近くに置いていた所、賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)を妊娠をした。


淡路島七福神めぐり 毘沙門天・覚住寺・毘沙門天さんは金の鎧

覚住寺 (7)
覚住寺 (6)
淡路島七福神めぐり
毘沙門天・覚住寺・毘沙門天さんは金の鎧のいでたちの毘沙門天さんは金の鎧で魔を寄せつけず、悪行煩悩を押さえつけ、清く、正しく、力強く生きる勇気の守護神が毘沙門天さんです。
覚住寺は推古朝の頃に聖徳太子の勅詔によって創建されたという。
この寺は淡路島でも最古の寺院と言う。

『戦国時代の群像』135(全192回) 「井伊直政」(1561~1602)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。

井伊2
井伊1
『戦国時代の群像』135(全192回)
「井伊直政」(1561~1602)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。
上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。兜は天衝脇立朱漆塗頭形兜。徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。
自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。
遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。
また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。
その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。幼名は虎松。
井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、当時の井伊家当主である井伊直盛(直政の父の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。
父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。当時、虎松はわずか2歳であったため、新たに直親の従妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。
虎松も今川氏に命を狙われたが、新野親矩が今川に助命して新野のもとで直政とその母は暮らす。しかし永禄7年(1564年)、新野親矩が討死し、そのまま新野の妻のもとで育てたとも、井伊直盛の正室と直政の実母が養育したともいうが、永禄11年(1568年)、甲斐の武田が今川を攻めようとした際、井伊家家老の小野但馬は今川からの命令として、直政を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、直政を出家させることにして浄土寺、さらに三河鳳来寺に入った。
天正2年(1574年)、直政が父の13回忌のために龍潭寺に来た時、井伊直盛の正室(井伊直虎の母)・井伊直虎・龍潭寺の住職・直政の母が相談し、家康に仕えさせようとするが、まずは鳳来寺に帰さないために直政の母が松下源太郎に再嫁し、直政は松下家の養子になったことにしたという。
天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた。
万千代は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立てた。
天正10年(1582年)、22歳で元服し、直政と名乗る。この年、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する(結婚は天正12年説あり)。
同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国、甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、士大将になった。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになる。
その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。また、同時に井伊谷4万石に加増されたという説あり。このころから、「兵部少輔」を称する(「兵部大輔」とあるのは誤記)。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えの部隊を率いて武功を挙げ、一躍天下に名を知られるようになる。
また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような前立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。
天正13年(1585年)、真田攻めの撤退を指揮するために上田に派遣される。この後、井伊谷6万石に加増されたという説あり。
天正14年(1586年)10月、家康が上洛し、秀吉に臣従すると、直政の武力・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜したという。
天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次を始め、古参の重臣達が諸大夫に留まる中、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった。
この時に「井侍従藤原直政」という署名が見られ、豊臣姓ではなく藤原姓を称した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。
同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。
先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされているが、笠谷和比古によると実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦に求めるべきとされている。
家康から諸将に七月七日付で出されている軍法の第四条で抜け駆けを厳禁している。そもそも合戦開始時においても、合戦後においても福島から井伊に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、井伊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている。
その後の直政と忠吉の行動に関しては、宇喜多秀家・小西行長の軍と戦った、敵中突破退却を図ろうとする島津義弘の軍と戦ったと言う2説があるが、最近では島津軍と戦ったという説が有力であるとされている。この戦いで義弘の甥である島津豊久を討ち取った。
しかし、退却する島津軍を百余騎率いて猛追し、遂に義弘の目前まで迫り、いざ義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤が撃った銃弾が右肘関節(記述によっては右肩または左腕)に命中し落馬してしまう。
あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追い付けず、単騎駆けのような状態であったという。関ヶ原の戦いで大怪我を負ったにも関わらず、精力的に戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和などに務めた。
家康への全面的な忠節を誓わせた輝元からは、直政の取り成し、特に、周防・長門の二カ国が安堵された事に大いに感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文が直政に送られた。
慶長7年(1602年)2月1日に、おそらくは長年の家康に対する奉公による過労と関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、 破傷風が元で]死去した。
直政が死去した当初、地元の民衆達の間で三成の怨霊が城下を彷徨っているという噂が広まって、このことが家康の耳に入り、家康の命によって、佐和山城を始めとする三成に関係する物の全てを廃した。[
その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となった。代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれた。それ以来、この地は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄えることとなった。
家康は、西国の抑えと、非常時に朝廷を守るため、京都に近い彦根に徳川最強の軍団である井伊家を配したと伝えられ、これを見ても徳川家から強い信頼を受けていたと考えられる。
家康は、徳川最強軍団である井伊家を率いる当主を誰にするかは重要な問題であったことから、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に出兵するに際し、直政の跡継ぎとして井伊家の軍団を率いる大将には、それまで名目上の井伊家当主であった直政長男の井伊直継には能力がなかったことから(表向きは病弱とする)、次男である井伊直孝を指名した。遺体はその遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付された。その跡地に長松院を創建した。


『歴史の時々変遷』(全361回)206“秀吉の四国攻め“ 「秀吉の四国攻め」安土桃山時代の

秀吉4
秀吉2
『歴史の時々変遷』(全361回)206“秀吉の四国攻め“
「秀吉の四国攻め」安土桃山時代の天正13年(1585)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親との戦争である。
資料によっては四国征伐、四国の役、四国平定などの呼称も用いられる。これに加えてウィキペディアでは、本能寺の変によって中断された1581年(天正9年)から1582年(天正10年)にかけての織田信長による四国進出の過程についても説明する。
天正3年(1575年)、土佐を統一した長宗我部元親は家臣の反対を押し切り、中島可之介を使者として織田信長の元に派遣した。
目的は元親の長男弥三郎の烏帽子親を信長に引き受けてもらうことだった。交渉は成功し、信長は弥三郎に一字を与えて信親と名乗るよう返書を出した。
この時信長は元親に阿波での在陣を認め、また「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状も出したとされる。
天正8年(1580)6月、元親は香宗我部親泰を安土に派遣し、阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。
また阿波征服のために、康俊の父三好康長が長宗我部氏に敵対しないように信長から働きかけてくれるよう依頼し、いずれも了解を得た。この頃は明智光秀が取次役として、元親・信長の交渉窓口となっていた。
なお、この時のことを記した『信長公記』天正8年6月22日条において、元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現していることが注目される。
この「捕佐(=輔佐)」の意味については不詳とされてきたが、この当時の土佐国は長宗我部氏によって統一されていたものの、土佐一条家の当主である一条内政が未だに元親の庇護下に置かれており、信長は内政=国主・元親=輔佐すなわち陪臣と位置づけたと解する説が浮上した。
つまり、信長は長宗我部氏の土佐支配そのものを暗に否認して元親の行動に一条家の家臣として織田政権の秩序に従属するように求めたというのである。
なお、一条内政は天正9年(1581年)2月に反乱に連座して、元親によって土佐から追放されているが、これは単なる土佐国内の問題ではなく、天正8年6月以後の状況の変化によって元親の織田政権政策が強硬寄りに変更されて「信長ー内政ー元親」の秩序を拒否した結果とされている。
天正9年(1581年)3月、康長は讃岐から阿波に入り、式部少輔を長宗我部氏から離反させた。
同年6月、信長から香宗我部親泰に朱印状が与えられた。その内容は長宗我部氏と三好氏が協力することを求めるもので、信長の四国政策が三好氏寄りに変更されたことを示すものだった。
長宗我部氏から圧力を受けた阿波の三好氏、伊予の河野氏や西園寺公広らは信長に救援を求めたため、信長は元親に土佐及び阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地は返還するよう命じた。
しかし元親は、四国征服は信長が認めたことであり、また獲得した領地は自力で切り取ったものであり信長の力を借りたものではなく、指図を受けるいわれはない[6]とはねつけた。光秀は石谷頼辰を派遣して元親を説得したが、おそらく天正9年(1581年)後半頃[7]には織田・長宗我部の交渉は決裂した。
一方、長宗我部氏は信長と対立関係にあった毛利氏とも協調関係にあった。両氏に関係が生じたのは、阿波の親長宗我部勢力であった大西覚用が遅くても天正5年(1577年)2月までに毛利方に通じたために4月に長宗我部氏が大西氏を攻めたものの、同年7月までに毛利氏が現状(大西氏の長宗我部氏への服属)を認めて以降のことであり、大西氏や讃岐の親毛利勢力で天正7年(1579年)以降長宗我部氏の傘下に入った。
香川信景を通じて協調関係にあったと考えられるが、長宗我部・織田の決裂に伴い、天正9年(1581)8月までには讃岐天霧城にて対織田同盟を結んだ。
また東伊予の金子元宅とも天正9年(1581)中には同盟を結んだ。北海道大学助教で長宗我部氏関係の論文を多く発表している平井上総によると、長宗我部氏から見れば瀬戸内海に影響力を持つ毛利氏との連携は元来は三好氏との交戦中に毛利氏が三好氏と結びついて軍事衝突に至る事態を回避する目的を主としており、三好氏と対立関係にあった織田氏との関係を損なうものではないと判断していたのに対し、信長から見れば毛利氏討伐を本格化させる中で織田氏・毛利氏双方と関係を保とうとする長宗我部氏の外交姿勢に対して次第に不信感を抱き始めた側面があったと指摘している。
同年9月までに、篠原自遁や東讃岐の安富氏も小寺(黒田)孝高を介し、当時中国攻めの任にあった秀吉に人質を差し出して従属した。これに伴い、秀吉は孝高に淡路攻撃を指示した。
10月、秀吉は当時淡路志知城に進出していた孝高に、長宗我部氏に抵抗する篠原の木津城及び森村春の土佐泊城への兵糧・弾薬の補給を命じた。1
1月中旬、秀吉は自ら池田元助と共に淡路に渡り、まず由良城の安宅貴康を降した。
次いで岩屋城を攻略して生駒親正に守備させ、仙石秀久に淡路の支配を命じた。また安富氏の秀吉への従属により、安富氏の勢力圏であった小豆島も同年中には秀吉の支配下に入った。天正10年4月には塩飽諸島も能島村上氏から離反して秀吉に属した。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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