「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

「神仏霊場巡り」橿原神宮・奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する神社である。記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)

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「神仏霊場巡り」橿原神宮・奈良県橿原市の畝傍山の東麓、久米町に所在する神社である。記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治二十三年)官幣大社として創建された。1940年(昭和十五年)には昭和天皇が同神社に行幸し、秋には日本各地で紀元2600年奉祝式典が挙行された。この年の参拝者は約1000万人に達したという。現在でも皇族の参拝がある。近代の創建ではあるものの、奈良県内では春日大社と並んで初詣の参拝者数が多い神社である。他にも、勅使参向のもと紀元祭が行われる2月11日(建国記念の日)や、神武天皇祭および奉祝行事「春の神武祭」が行われる4月3日にも多くの参拝者が訪れる。畝傍山東麓は北側が神武天皇御陵、南側が橿原神宮となっている。県道を隔てた東側は奈良県立橿原公苑として整備されており、橿原公苑野球場や橿原公苑陸上競技場があり、スポーツ競技の奈良県予選決勝の舞台として頻繁に利用されている。公苑に隣接する施設として奈良県立橿原考古学研究所および付属博物館がある。また、付近は多数の陵墓が存在する。社務所に当たる組織は橿原神宮庁と呼ぶ。内拝殿が描かれた紀元二千六百年記念切手なっている

『河内史跡巡り』神宮寺小太郎(2)""じ神宮寺小太郎伝説・お恩智には昔より、神宮寺小太郎伝説が残っている。親より子供の頃より,神宮寺小太郎と言う豪族が恩智左近と共に南朝方の楠正成に属した「八臣の一人」である。活躍ぶりは地元に言い伝えられ、正成の湊川の合戦の討ち死に後、子正行とともに四条畷に出陣に討ち死にし、神宮寺城も落城した。城跡は南東の馬乗山の字垣内山にあって、東西五町、南北三町の武器を蓄えた城であった。遺跡は発掘され破壊されたという。

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『河内史跡巡り』神宮寺小太郎伝説・お恩智には昔より、神宮寺小太郎伝説が残っている。親より子供の頃より,神宮寺小太郎と言う豪族が恩智左近と共に南朝方の楠正成に属した「八臣の一人」である。活躍ぶりは地元に言い伝えられ、正成の湊川の合戦の討ち死に後、子正行とともに四条畷に出陣に討ち死にし、神宮寺城も落城した。城跡は南東の馬乗山の字垣内山にあって、東西五町、南北三町の武器を蓄えた城であった。遺跡は発掘され破壊されたという。

“日本名僧・高僧伝”52・忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧

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“日本名僧・高僧伝”52・忍性(にんしょう、建保5年7月16日(1217年8月19日) - 乾元2年7月12日(1303年8月25日))は、鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧である。房名(通称)は良観。貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られる。父は伴貞行(後に叡尊教団の斎戒衆となり慈生敬法房と名乗った?)。大和国城下郡屏風里(現奈良県磯城郡三宅町)に生まれる。忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識されており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。忍性はここに石の鳥居を築造しこれらの人々を真言の利益にあずからせようとしたのだろう。師の叡尊は民衆への布教を唱えながら、自分には不得手であることを自覚して当時の仏教において一番救われない存在と考えられていた非人救済に専念し、その役割を忍性に託した。忍性は非人救済のみでは、それが却って差別を助長しかねないと考えて非人を含めた全ての階層への救済に尽力した。その結果、叡尊と忍性の間に齟齬を来たし、叡尊は忍性が布教に力を入れすぎて学業が疎かになっている(「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」(『聴聞集』))と苦言も呈している。真言律宗が真言宗とも律宗とも一線を画していくことになるのには、忍性の役割が大きいと言われている。『性公大徳譜』によると忍性が生涯で草創した伽藍83ヶ所(三村寺・多宝寺・極楽寺・称名寺など)、供養した堂154ヶ所、結界した寺院79ヶ所、建立した塔婆20基、供養した塔婆25基、書写させた一切経14蔵、図絵した地蔵菩薩1355図、中国から取り寄せた律三大部186組、僧尼に与えた戒本3360巻、非人(ハンセン氏病患者など)に与えた衣服33000領、架橋した橋189所、修築した道71所、掘った井戸33所、築造した浴室・病屋・非人所5所にのぼるとされている。
◎略歴・安貞元年(1227年)信貴山朝護孫子寺で文殊の五字呪を唱える(文殊菩薩信仰)。・貞永元年(1232年)死の床にあった母の懇願により、大和国額安寺に入って出家し官僧となる(官度)。三大文殊の一つ安倍寺(安倍文殊院)に参詣する。・天福元年(1233年)東大寺戒壇院にて受戒する。以後、文殊菩薩の化身と信じられていた行基ゆかりの竹林寺などで修行を重ねる。・嘉禎2年(1236年)7日間の断食を3度おこない文殊の五字呪を50万回唱える。・延応元年(1239年)叡尊が主導していた西大寺の再建に勧進聖として加わり、叡尊に惹かれて再度叡尊の下で受戒してその弟子となる。生駒に参籠し文殊を祈願する。・仁治元年(1240年)改めて額安寺で出家の儀式をやり直し、西大寺に入寺し叡尊教団に身を投じている。この頃、額安寺周辺の非人宿で文殊図像の供養をおこなう。・元元年(1243年)奈良の般若寺近辺に北山十八間戸創設。初めて関東に赴いて仏教事情を調査する。・寛元2年(1244年)文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう(亡母13回忌追善供養)。般若寺に丈六文殊像を安置。・寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。・宝治元年(1247年)同門の定舜が宋から持ち帰った律書(律三大部十八具)を受け取るために九州に下る。・建長4年(1252年)本格的な布教活動のために関東へ赴き、常陸三村寺(御家人八田知家の知行所。現在は廃寺)を拠点に、当時常総地域に広がっていた内海の舟運を利用しつつ布教活動を行い、鎌倉進出の地歩を固める。・正元元年(1259年)北条重時の招聘に応じ、鎌倉に隣接する極楽寺の寺地を相す。・弘長元年(1261年)北条時頼・北条重時・北条実時らの信頼を得て鎌倉へ進出。北条重時の葬儀を司り、最初は釈迦堂(現在は廃寺)に住む。・弘長2年(1262年)北条時頼の要請により東下してきた叡尊に謁する。病気がちの叡尊に代わり授戒をおこなう。鎌倉の念仏者(浄土教系)の指導者念空道教が叡尊に帰依したことで、忍性が鎌倉の律僧・念仏僧の中心的人物となる。弘長4年・文永元年(1264年)鎌倉雪ノ下で非人3000人を救済する。文永2年(1265年)灌頂を受けて阿闍梨となり、戒密兼修をすすめる。・文永11年(1274年)飢饉がおき飢えた人々に大仏谷で粥を施す。・建治元年(1275年)極楽寺炎上、堂塔灰燼に帰する。摂津多田院(現・多田神社)別当に就任し復興に努める。
• 弘安4年(1281年)弘安の役に際し幕府から御教書が下されて異国退散祈祷を行う。多田院本堂供養に際し周辺の山河を殺生禁断とする。・弘安6年(1283年)病者に療養を施す。・弘安7年(1284年)永福寺]・五大堂(明王院)]・大仏(高徳院の別当(責任者)に任命される。祈雨の法をおこなう。・弘安9年(1286年)幕府から御教書が下されて祈雨の法をおこなう。・弘安10年(1287年)極楽寺金堂落慶供養がおこなわれる。幕府の後援を受け鎌倉桑ヶ谷の病屋に病人を集める。以後20年間に46800人を治療したという。・正応元年(1288年)西大寺で叡尊に謁する。叡尊から改めて灌頂を受ける。・永仁元年(1293年)院宣により異国調伏を祈願する。東大寺大勧進に任命される。・永仁2年(1294年)摂津・四天王寺別当に任命され、悲田院・敬田院を再興し石の鳥居を築造する。・正安2年(1300年)極楽寺の一部炎上。・正安3年(1301年)祈雨の法をおこなう。・嘉元元年(1303年)祈雨の法をおこなう。極楽寺において87歳で死去。遺骨は大和国竹林寺・額安寺にも分骨された。嘉暦3年(1328年)後醍醐天皇より忍性菩薩の尊号を勅許された。




『戦国時代の群像』111(全192回)石川 康長(1554~1643)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃松本藩の第2代藩主。

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『戦国時代の群像』111(全192回)石川 康長(1554~1643)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃松本藩の第2代藩主。諱は三長(みつなが)、数長(かずなが)とも言う。石川数正の長男として生まれ、徳川家康に仕える。天正12年(1584年)、家康の次男秀康が大坂に送られた際に本多成重(仙千代)や弟・康勝(勝千代)と共に扈従し[5]、翌天正13年(1585年)、父が家康の下を出奔して豊臣秀吉に仕えたのに従って、豊臣家に仕える。文禄元年(1592年)、文禄の役では父の代理として[6]肥前名護屋城に詰めて、在陣衆の1つとして500名を率いて駐屯した[7]。父の死去により、家督を継いで第2代藩主となり[8]、父の遺領10万石のうち8万石を相続し、残りの2万石は2人の弟に分知された。康長は父の代より続く居城の松本城(深志城)の普請をさらに進めるが、その規模は8万石の分限を超えていたため、百姓人夫は苦労した。山林の木や竹を伐採し、民家を取り壊しても償いもなく、強引な施策の連続であった。太鼓門に据える巨石を運ぶ人足が苦情を訴えたことを知ると、自らその首を刎ね、槍で差し上げて「者どもさあ引け」と叫んで運搬させたと伝わっている。文禄3年(1595年)、伏見城普請を分担。慶長2年(1597年)、豊臣姓を下賜された。同年10月29日、従五位下式部大輔に叙任される[。慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に従い、そのまま東軍に与する。徳川秀忠の中山道軍に従い、西軍の真田昌幸を攻撃することになり、康長は日根野吉重[11]と共に上田城の支城・冠者ヶ嶽城を攻めて大敗した[13]。このため関ヶ原本戦には参加できなかったが、東軍であったことで、所領は安堵された。慶長18年(1613年)10月19日、大久保長安と縁戚関係にあったことから、大久保長安事件に連座。領地隠匿の咎を受けて弟の康勝、康次と共に改易され、康長の身柄は佐伯藩主毛利高政の預とされて、豊後佐伯に流罪に処された。改易の理由は、分限を超えた城普請が原因であったとする説や、幕府の外様大名外しであったとする説などもある。寛永19年(1642年)12月11日に配所で死去した。享年89[1]。

『歴史の時々変遷』(全361回)182“耳川の戦い”「耳川の戦い」天正6年(1578)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久

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『歴史の時々変遷』(全361回)182“耳川の戦い”「耳川の戦い」天正6年(1578)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。薩隅日(南九州)の支配者である島津氏と豊筑肥(北九州)の支配者である大友氏の関係は長い間良好であった。島津氏と日向の伊東氏との対立においても永正年間以来、大友氏が度々島津氏に有利な条件での仲介に乗り出しており、お互いの勢力圏には干渉しあわない事実上の同盟関係にあった。国内情勢が不安定な状態が続いた島津氏にとっては自国の安全を保つ上で大友氏との関係は重要であり、明などとの対外交易に関心を有していた大友氏にとっても海上での船舶の安全を図る上で島津氏との関係が重要であったからである。実際、島津領内に漂着した大友氏の船の扱いを巡って天正元年(1573)8月25日付で大友氏の加判衆(田原親賢・臼杵鑑速・志賀親度・佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克・島津季久・村田経定・伊集院久信・平田昌宗・伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現し、反対に9月に島津側の川上・村田・伊集院忠金から大友氏側に充てられた返書にも両家が「御堅盟」の関係である事が記されており、両家の関係が同盟関係であったことを示している。また、永禄3年(1560)に室町幕府将軍・足利義輝が島津氏と伊東氏の対立の仲裁にあたった時も、島津貴久は義輝の使者である伊勢貞孝(政所執事)に対して大友氏を加えた和平であれば受け入れると回答したと、島津氏の家臣の樺山善久が書き残している。この同盟関係の結果、島津氏は薩摩・大隅・日向の統一事業に専念することができ、大友氏も北九州での戦いの最中に島津氏や伊東氏に背後を突かれる不安を解消できたと考えられる。ところが、天正5年(1577)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、大友氏に身を寄せた。その頃、大友氏は北九州を巡って毛利氏と攻防を続けていたが、その毛利氏には織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭が亡命していた(鞆幕府)。こうした状況の中、天正6年(1578)に入ると、大友宗麟・義統は島津氏の北上に対抗して伊東氏を日向に復帰させるために3万とも4万ともいわれる大軍を率いて日向への遠征を決定する。一方、毛利氏が上洛に踏み切らないのは大友氏が背後を脅かしているからだと考えた足利義昭は、この年の9月に島津氏に大友領に侵攻して大友氏の毛利領侵攻を止めさせるように命じる御内書を出した。これを受けた島津義久も御内書を大義名分として更なる北上を決定する。しかし、大友家内部では宗麟の狂信的なキリスト教への傾倒などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。また、合戦直前の大友軍の軍議で田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は裏で島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至り、やむなく秘伝の奥義書を焼いて敵中に突入し戦死している。当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、また大友軍は追撃により陣形が長く伸びきっており、そこを島津軍が突いたことによって戦況は一転し、大友軍は敗走する。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。

「新西国観音三十三所巡り」神呪寺(かんのうじ)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は甲山。真言宗御室派別格本山。甲山大師

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「新西国観音三十三所巡り」神呪寺(かんのうじ)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は甲山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、本尊は如倫観音像。新西国観音二一番札所。地元では「お大師さん」とも呼ばれている。寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長四年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長五年(828年)にひそかに宮中を抜け、頂法寺=六角堂で修業をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(現西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長七年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長八年(831年)10月18日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。 この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。 空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂は江戸時代の再建。当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。

「宗像神社」京都府京都市上京区、京都御苑内にある神社である。国史見在社で、旧社格は府社。宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命を主祭神

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「宗像神社」京都府京都市上京区、京都御苑内にある神社である。国史見在社で、旧社格は府社。宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命を主祭神に、倉稲魂神と天岩戸開神の2柱を配祀する。主祭神は『日本三代実録』に、筑前国の宗像神社(現宗像大社)と鎮座地を異にするが「同神」であると記されたり、「同神別社」であると記されている。配祀神の天岩戸開神も国史見在社(天石戸開神)を合祀したもので、『花山院家記』(『山城名勝志』所引)には合祀前の状況を「天石戸開神。大石也。霊有り」と伝えており、また倉稲魂神は藤原時平によって合祀されたと伝える。現在、御苑内の西南(裏鬼門)にあたる位置に鎮座するため、方除けの信仰を集めている。社伝によれば、延暦14年(795)、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を蒙り、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である東京第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝えるが、当神社の鎮座由来を記す最古のものとしては『土右記』が挙げられる。東京第は冬嗣の没後、東の花山院と西の小一条第に分けられたが、同書には当時の小一条第第主師成の語った以下の話を載せている[4]。小一条第は藤原内麻呂が息子の冬嗣に買い与えた邸宅であるが、その理由は、冬嗣がまだ内舎人であった頃、参内の途中で虚空から宗像大神が呼びかけ、父に頼んで小一条第を買ってもらい、そこに居住して傍らに宗像大神を祀れば、子々孫々にわたって守護しようとの神託があったためである。また、邸内の東北隅には天石戸開神も祀られていたようであるが、その由緒は不明である。


「河内史跡探訪」白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、大阪府羽曳野市にある神社である。祭神・日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀

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「河内史跡探訪」白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、大阪府羽曳野市にある神社である。祭神・日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。歴史は元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。天明4年(1784年)、古市の氏神として現在地に移された。明治41年(1908年)、式内・高屋神社を合祀した。高屋神社は昭和29年(1954年)に独立・再興されたが、現在でも合祭神としてその祭神を祀っている。

“日本名僧・高僧伝”51・叡尊(えいそん・えいぞん、建仁元年(1201年) - 正応3年8月25日(1290年9月29日))は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧。

叡尊1
“日本名僧・高僧伝”51・叡尊(えいそん・えいぞん、建仁元年(1201年) - 正応3年8月25日(1290年9月29日))は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市)の生まれ。戒律を復興し、奈良西大寺を復興した僧として知られる。・建保5年(1217年)醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。・元仁元年(1224年)高野山に入り真言密教を学ぶ。・嘉禎元年(1235年)戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となり、『四分律行事鈔』を学ぶ。・嘉禎2年(1236年)覚盛、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒[注釈 1]。地頭の侵奪により西大寺が荒廃したために海龍王寺に移る。・暦仁元年(1238年)持戒のあり方をめぐり海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻る。西大寺の復興に努め、結界・布薩する。・仁治元年(1240年)西大寺に入寺した忍性の文殊菩薩信仰に大きな影響を受ける。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)をおこない、近傍の非人に斎戒を授ける。・仁治2年(1241年)三輪宿で文殊供養をおこなう。・仁治3年(1242年)和爾宿・北山宿で文殊供養をおこなう。額安寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。奈良の獄屋の囚人に斎戒沐浴させる。・寛元元年(1243年)額安寺西宿・三輪宿で文殊供養をおこなう。・寛元2年(1244年)河内諸宿で文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう。・寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。法華寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。・元4年(1246年)道明寺]で授戒をおこなう。・寛元5年・宝治元年(1247年)仏師善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせる。・建長元年(1249年)仏師善慶に京都清凉寺釈迦如来像の模刻をつくらせ西大寺四王堂に安置する。・建長2年(1250年)絵師堯尊に文殊菩薩画像・十六羅漢・十六尊者など21幅を描かせる。・建長6年(1254年)西琳寺で授戒をおこなう。『聖徳太子講式』執筆。太子講をはじめる(以後、毎年恒例となる)。・建長7年(1255年)円仁が唐の五台山から将来した『上宮太子勝鬘経疏義私鈔』を四天王寺で筆写し法隆寺に奉納する。・嘉2年(1258年)絵師堯尊に金剛界曼荼羅を描かせる。・文応元年(1260年)絵師堯尊に胎蔵界曼荼羅を描かせる。・弘長元年(1261年)浄住寺授戒と『四分律行事鈔』の講義をおこなう。北条実時の使者が訪れ関東への下向を懇請する。・弘長2年(1262年)太子講を諸所でおこなう。2月より関東へ下向し、新清凉寺(釈迦堂)に逗留、忍性・頼玄らの応援を得て授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。北条実時・北条時頼に拝謁し授戒する。7月に西大寺へ帰る。弟子の性海による『関東往還記』がその記録である。・文永3年(1266年)河内真福寺で非人救済をおこなう。・文永元年(1264年)光明真言を導入し、密教化をすすめる。・文永5年(1268年)般若寺再建のために文殊菩薩像(仏師善慶・善春が造像)開眼供養をおこなう。異国の難を払うため四天王寺で勤行をする。・文永6年(1269年)般若寺落慶供養をおこない、周辺で非人・癩者の救済をおこなう。紀伊の金剛宝寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。・文永10年(1273年)蒙古襲来(元寇)に際して伊勢神宮に参籠し大般若経を転読する。・文永11年(1274年)蒙古襲来に際して四天王寺で亀山天皇の行幸を得て百座仁王会を修する。・文永12年・建治元年(1275年)伊勢神宮に参籠する。・建治2年(1276年)仏師善春に大黒天像をつくらせる。・弘安2年(1279年)亀山上皇以下公卿らに授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。・弘安3年(1280年)伊勢神宮に参籠する。弟子らが仏師善春に80歳を迎えた叡尊の寿像を造らせる。(西大寺蔵の興正菩薩坐像)・弘安4年(1281年)蒙古襲来に際して亀山上皇の御幸を西大寺に迎え、石清水八幡宮で尊勝陀羅尼を読誦する。・弘安7年(1284年)宇治橋修造の朝命を受け殺生禁断のために宇治川の網代を破却する。後深草上皇以下公卿らに授戒をおこなう。・弘安8年(1285年)院宣により四天王寺別当に就任する。・弘安9年(1286年)宇治橋を修築、橋南方の浮島に十三重石塔婆を建立する。・正応3年(1290年)西大寺で病を発し秋に示寂。・正安2年(1300年)伏見上皇の院宣により行基菩薩の先例により興正菩薩の尊号がおくられる。


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Author:侏儒のつぶやき
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