史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

“日本名僧・高僧伝”22・良源(りょうげん、延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日))は、平安時代の天台宗の僧

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“日本名僧・高僧伝”22・良源(りょうげん、延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日))は、平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。良源は延喜12年(912年)、近江国浅井郡虎姫(現・滋賀県長浜市)に、地元の豪族・木津(こづ)氏の子として生まれた。幼名は観音丸(日吉丸とも)といった。12歳の時(15歳ともいう)、比叡山に上り、仏門に入った。良源は、最澄(伝教大師)の直系の弟子ではなく、身分も高くはなかったが、南都(奈良)の旧仏教寺院の高僧と法論を行って論破したり、村上天皇の皇后の安産祈願を行うなどして徐々に頭角を現し、康保3年(966年)には天台宗最高の地位である天台座主に上り詰めた。延暦寺は、承平5年(935年)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、荒廃していた。良源が天台座主に就任した康保3年(966年)にも火災があったが、良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造った。天禄元年(970年)には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配った。ただし、応永16年(1409年)年の『山家要記浅略』では、反対に僧兵の創始者とされている[1]。良源は、比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。弟子も多く、中でも『往生要集』の著者・源信(恵心僧都)は著名である。朝廷から贈られた正式の諡号(おくりな)は「慈恵」(大師号はない)であるが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。比叡山横川(よかわ)にあった良源の住房・定心房跡には四季講堂(春夏秋冬に法華経の講義を行ったことからこの名がある)が建ち、良源像を祀ることから「元三大師堂」とも呼ばれている。また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている。慈恵大師・良源には「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」など、様々な別称があり、広い信仰を集めている。



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『浪速史跡めぐり』安居神社(真田幸村ゆかりの神社)大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。創建年は不詳であるが

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『浪速史跡めぐり』安居神社(真田幸村ゆかりの神社)大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。境内には桜や萩などがあり、茶店もあって見晴らしよく、遊客も多かったという。摂津名所図会、浪速名所図絵でも花見の名所として選ばれている。大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称されることがある。また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの井)の址などがある。上方落語の「天神山」の噺の舞台としても登場する。同じく登場する一心寺とは国道25号線を挟んで向かい合わせにある。

『戦国時代の群像』81(全192回)蜂須賀 正勝(小六)(1526~1586)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

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『戦国時代の群像』81(全192回)蜂須賀 正勝(小六)(1526~1586)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の祖。初名は利政[3]。通称は小六(ころく)もしくは小六郎(ころくろう)で、特に前者は広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名している。官位は従四位下修理大夫。蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷を拠点とした国衆で、正勝は大永6年(1526)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれた。生母は不明であるが、その生母は彼が6歳の時、享禄4年11月7日(1531)に亡くなったという。川並衆の1つを率いて木曽川の水運業を行うことで利益を得ていたとの話もあるが、信憑性には疑問も呈されている。稲田大炊助、青山新七等と土豪勢力をなしていたようだが詳しいことはわかっていない。しかし少なくとも父の代より美濃斎藤氏に仕えており、それが理由で織田信秀方に付いた一族とは敵味方に分かれていた。天文22年(1553)2月25日の父の死後、正勝は郷里を出て斎藤道三に近侍した。濃尾の争いで道三にしばしば用いられ、初名の利政[3]も道三より偏諱を受けたものらしい。弘治2年(1556)、道三と斎藤義龍が争った長良川の戦いでは、道三側について首級を上げた。道三死後は尾張国の岩倉城主・織田信賢に仕え、翌年、岩倉城で反乱があった際に鎮圧に貢献して賜衣を授けられた。しかし信賢は織田信長と犬山城主・織田信清の連合に攻められ、敗れて降伏。このため正勝は信清に一時的に仕えるが、信清も信長と不和となって永禄7年(1564)に甲斐国へ亡命したので、信長に仕えるようになって、この頃、蜂須賀郷に戻った。その縁で秀吉の与力となった可能性もあるとされる。永禄9年(1566)、美濃国において秀吉の手で果たされた墨俣城の築城に前野長康らと協力した土豪衆(稲田大炊助、青山秀昌、長江景親、梶田景儀など)の1人として、正勝は弟・又十郎と共にこれに加わった。秀吉が城の守将とされた後も与力として付けられて、斎藤方を調略する案内役として活動した。正勝はこれらの功で、信長により50余村と500貫を褒美として与えられた。永禄11年(1568)、近江六角攻めでも秀吉与力として箕作城の攻撃に参加。同年、信長に従って上洛した。永禄12年(1569)、秀吉の代官として京に留まって警備にあたり、5月、二条城が火災に見舞われた際には速やかに鎮火したので、足利義昭は正勝に桐の紋の入った羽織を褒美として与え、家紋としての使用を許した。以後、正勝は桐紋を衣類を用いるようになったが、後年、秀吉も桐の紋(太閤桐)を用いることが許されるので、これを憚って(正勝の死後の)蜂須賀家では柏紋(抱き柏紋)に改めている。また、信長も正勝の手柄を伝え聞き、尾張春日井郡三淵郷に5,000石を褒賞として与えた。元亀元年(1570)、越前天筒山城・金ヶ崎城攻め、金ヶ崎の退き口で活躍。姉川の戦い、近江横山城の攻略で秀吉と従軍して功をあげた。横山城が秀吉に任せられると正勝は城代となった。元亀2年(1571)5月、堀秀村がいた箕浦城が浅井・一向一揆勢に攻められると、秀吉は正勝らを派遣してこれを救援させて撃退したが、その際に一番槍の手柄を上げている。また長島一向一揆との戦いにも従軍したが、この戦いでは弟・正元を失った。天正元年(1573)、浅井氏の滅亡後に秀吉が近江長浜城主(当初は小谷城で後に移転)となると、正勝には秀吉の直臣として長浜領内にも食邑が与えられた。『松平記』によると、翌年、信長は家中の殊勲・功臣を選抜したが、秀吉の配下では伊藤輿三左衛門尉と正勝の二人だけが選ばれた。天正4年(1576)の天王寺合戦に参加。秀吉勢の先鋒を務めて、「楼岸(ろうのきし)一番の槍」の手柄を挙げ、中村重友と共に一揆勢の首も多数上げて、秀吉より感状と100石の加増を与えられ、さらに信長からも褒美として定紋の軍衣を直に手渡されるという栄誉を受けた。天正5年(1577)から始まった中国攻めには、秀吉の譜代衆となった息子・家政と共に従軍した。天正7年(1579)の播磨三木城攻め(三木の干殺し)では、別所長治、小早川隆景の挟撃をうけた平田城で谷衛好が敗死すると、これの反撃となった大村合戦では小早川勢を撃退して200の首級を挙げて兵糧強奪も果たし、糧米輸送を阻止した。天正8年(1580)4月24日、広瀬城(長水城)を正勝と家政で攻略して城主・宇野重清を討ち取った(または捕らえた)。この功により、家政には月毛の名馬を、正勝には長水城が与えられて、初めて城主となった。その後、播磨を平定すると、秀吉は黒田孝高の助言に従って姫路城を本拠として改修し、正勝にも播磨龍野城5万3千石を与えた。同年、秀吉は、正勝の娘(後の宝珠院)と黒田孝高の長男・松千代(松寿)丸(後の黒田長政)との婚約を成立させ、左右の重臣の結束を固めた。天正9年(1581)、因幡鳥取城攻め(鳥取の渇殺し)にも従軍し、城を包囲する寄せ手に入った。吉川経家は当初しばしば兵を出して挑発してきていたので、秀吉の命令で加藤清正と正勝で搦め手より強襲したが、これは待ち伏せに遭って撃退された。5ヶ月続いた籠城期間中、正勝は吉岡城、大崎城、鹿野城の降誘を進言してこれを降した。吉川元春が伯耆国に侵攻して、南条元続の羽衣石城と小鴨元清の岩倉城を攻めて、経家の雪辱を果たそうと馬山に背水の陣を布いた際には、秀吉は正勝と荒木重堅を派遣して羽衣石城への糧道を確保させたが、正勝は死兵と戦う不利を説き、結局、秀吉は軍を退いて決戦を回避し、両城には応戦せずに堅守に徹するように指示した。同年11月、秀吉は信長の許可を得て淡路遠征を行った。摂津尼崎の池田之助が岩屋城を包囲したので、由良城(由良古城)の安宅清康は、秀吉の陣の正勝と伊木忠次(当時は池田氏家臣)とに投降を申し出て、秀吉および信長に取り次がれて許可されたので、淡路勢は降伏して諸城が開城した。正勝は名代として岩屋城を引き取ったが、この城は池田領となり、羽柴領となった洲本城は仙石秀久に与えられた。天正10年(1582)3月、正勝と黒田孝高は、小早川隆景の水軍の将であった乃美宗勝・元信を調略したが、失敗した。4月より備中高松城の戦い(高松の水殺し)が始まるが、この時も2人が清水宗治の陣中へ使者として訪れて降誘させようとしたが、拒否された。しかし長期包囲・水攻めに窮した毛利勢は最終的に清水宗治、月清、難波宗忠、末近信賀の切腹と開城で和睦を図ることになって、6月3日、それ以外の城兵の助命を秀吉に取りなしてもらうための書状が正勝と杉原家次のもとに届いた。秀吉がこれを許して、翌日に4名が切腹した。ところが、この2日前に本能寺の変ですでに信長は非業の死を遂げており、通説では3日夜に秀吉はこの事実を知って情報が漏れぬように正勝に伝令の使者を監禁するように命じ、続いて各方面から来る伝令は陣中に入れずに途中で迎えて追い返させ、機密の保持を厳命したという。秀吉は正勝と孝高に安国寺恵瓊と協議させて、毛利氏と誓紙を取り交わして和睦を成立させると、5日には陣を引き払って、中国大返しが始まった。姫路城に帰還した秀吉は、正勝に命じて、すべての金銀米穀を家臣それぞれの知行に応じて分配させた上で、山崎の合戦に臨んだ。合戦において正勝は秀吉本隊の一員として戦い、稲田植元と共に戦功を上げた。戦後、正勝と黒田孝高は毛利氏との取次役も務めた。本能寺の変の直後に締結された毛利氏と織田氏との和睦に5カ国割譲という条件が含まれていたため、秀吉と毛利氏との関係の再構築は難航した。両名は安国寺恵瓊、林就長らと折衝を重ねて、(織田家の内紛における中断期間を含めて)約3年かけて境を確定させたが、この間、正勝は三度中国に下向して、この大任を全うした。また秀吉が本拠を大阪に定めて、同年9月に大坂城の築城を始めるとその普請にも加わった。同年の徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いの際には、正勝・家政親子は大坂城留守居となった。戦後、秀吉は修復された桑部城に正勝を、縄生城に蒲生氏郷を守将として入れ、長島城から桑名城に移った信雄を圧迫して、講和を受け入れるように仕向けた。5月、四国攻めでは、正勝は目付として出征した。家政・黒田孝高ら播磨勢は、宇喜多秀家を将とする備前勢と合流して讃岐屋島に渡り、讃岐を制圧。次いで阿波国に進んで木津城を攻囲し、正勝が東条紀伊守を説得して城主・東条関之兵衛を降伏させた。さらに総大将・羽柴秀長と共に一宮城を包囲した。小早川隆景・吉川元長らと連絡を付けるために正勝が伊予国に行っていた7月に、秀長は守将・谷忠澄に白地城に赴いて長宗我部元親を説得するように勧め、それによって和議(降伏)が成立した。論功行賞によって、阿波一国(17万3千石)は家政に与えられ、阿波の内の1万石は赤松則房に与えられた。龍野城は福島正則へ与えられた。11月頃、家政は蜂須賀氏の郎党家臣をつれて阿波に入国し、秀吉の指示により渭山城を破却して徳島城を築城した。天正14年(1586)になると、正勝は病に臥せるようになり、京都で養生していた。一旦、快復して大坂に帰るが、ほどなく、5月22日、楼岸の邸宅で死去した。享年61。遺言によって、隠居領として与えられていた5,000石を豊臣家に返還したので、秀吉は正室(大匠院)のために河内日置に1,000石を与えた。家政によって亡骸は楼岸の龍雲山安住寺に葬られた。安住寺は元々は美濃国厚見郡鏡島の古刹で、兵乱で荒廃していたために、正勝が大坂の同地に移し、出家した石川伊勢守を開山として再興したものであ。同寺は慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際に焼失し、戦後の大坂城の拡張工事のために同じ場所には再建できなかったので、家政によって四天王寺の脇に移動されて、これが国恩寺となり、正勝の墓も改葬された。

『歴史の時々変遷』(全361回)154“神辺合戦” 「神辺合戦」天文12年(1543年)6月から天文18年(1549)9月4日まで、備後国神辺城(広島県福山市)を巡って大内氏・毛利氏と山名理興(尼子氏側勢力)の間で行われた一連の戦いである

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『歴史の時々変遷』(全361回)154“神辺合戦”
「神辺合戦」天文12年(1543年)6月から天文18年(1549)9月4日まで、備後国神辺城(広島県福山市)を巡って大内氏・毛利氏と山名理興(尼子氏側勢力)の間で行われた一連の戦いである。6年以上に渡って断続的に行われ、大内・毛利方が勝利した。なお、この戦いは「神辺城の戦い」などと表記されることも多いが、当時の城名は「村尾城」であり、「神辺城」の名は16世紀末以降に付けられている。本項では、現在の名称である「神辺城」で表記する。備後国の有力国人であった山名理興は、安那郡にある神辺城を居城とし、大内氏と結んで備後の外郡(そとごおり=備後国南部の沿岸地域)一帯に勢力を伸ばしていた。しかし、尼子氏の本拠地出雲国に遠征していた大内軍が天文12年(1543)5月に敗北すると、山名理興は大内方から尼子方に鞍替え、大内方勢力と対立する。尼子氏の後ろ盾でさらに勢力拡大を図る理興は、出雲遠征の失敗で当主を失ったばかりの竹原小早川氏を標的として攻め込むが、大内軍は安芸国の最有力国人である毛利元就と共に反撃する。天文12年6月、早速行動を起こした山名理興は、竹原小早川領の椋梨(現・広島県三原市)へ兵を進めた。しかし、救援として出陣した毛利軍が山名軍の侵攻を阻止。翌7月には、安芸槌山城に駐留していた大内重臣の弘中隆包も来援する。10月には山名側の援軍として来た尼子軍が撃退されてしまったため、攻勢に転じた大内・毛利軍は年末に神辺城まで攻め込んだ。理興は神辺城の防衛に成功したが、ここからが神辺の戦いとされる。天文13年(1544)になると、尼子氏の備後国攻略の橋頭堡である山名を支援すべく、3月には同国甲奴郡の田総に、7月には双三郡布野に(布野崩れ)、10月には豊田郡の高山城に尼子軍が進出するが、いずれも成果を挙げることはできなかった。一方、尼子軍を退けた大内・毛利軍だが、堅固な神辺城を攻略することはできなかった。同年11月、元就の三男徳寿丸(後の小早川隆景)が竹原小早川家の当主となり、小早川氏は毛利一門に組み込まれた。これに先立つ8月頃に大内氏より竹原小早川氏に対して、神辺城の南東にある五箇庄(大門・引野・能島・野々浜・津之下)を押さえて城を築くよう指示されている。これは、現在は埋め立てられているが、当時の大門湾にあった港が備中国の尼子方勢力との中継点であったため、水軍を持っていた小早川軍による海からの攻略が狙いであった。天文15年(1546)ないし翌16年に、竹原小早川軍は大門湾周辺の手城島城や明智山城を落とし、大門湾周辺の占拠に成功する。重要な支城を失った山名軍は、神辺城と大門湾の中間に位置する坪生庄の竜王山に出城(坪生要害)を築いて対抗しようとした。しかし、天文16年(1547)4月28日には坪生要害も陥落。この戦いに関する感状の幾つかに「隆景」の署名があるため、この時期に徳寿丸は元服し、坪生要害攻めで初陣を飾ったとされる。同時に、大内・毛利の主力軍は陸路で神辺城を目指した。12月下旬には、国境まで近づいてきた尼子氏の救援軍を、大内家臣小原隆言が退ける。山名家家老の杉原盛重の奮戦もあって、神辺城の攻略にこそ至っていないものの、外郡に加えて内郡も大内軍の勢力下となり、神辺城は孤立した。天文17年(1548)6月、大内・毛利軍による神辺城総攻撃が行われる。陰徳太平記の"備後国神辺城合戦之事"によれば、大内義隆より総大将を命じられた陶興房率いる周防国・長門国の軍勢5,000余騎に、毛利元就と毛利隆元・吉川元春・小早川隆景・平賀隆宗・宍戸隆家・香川光景らの兵を加えた10,000余騎とされる。総勢16,000余騎とする説もある。対する神辺城守兵は僅か1,000から1,500であった。陰徳太平記では、吉川家の家督を継いで初の戦いとなる元春が、6月23日に1,000余騎を率いて神辺城下に火を放ったところ、杉原左ェ衛門太夫の手勢300余騎と交戦。これを見た杉原盛重が1,000余騎を率いて元春隊に攻めかかるが、勢い盛んな元春は押し返して城の柵際まで攻め、負傷し盛重が兵を退いたと伝えている。大内氏実録では6月2日に毛利軍と山名軍の戦いが、陰徳太平記では6月18日と20日に総攻撃があったとされる。6月の戦いについては、元就・隆元父子が家臣に多くの感状を出しており「城越之鑓(やり)」という表現があることから、城の柵や塀越しの攻防が展開されたと思われるが、激戦の末に理興はその猛攻を凌ぎきった。7月には、大内義隆から小原隆言・弘中隆包に対して稲薙(青田刈り)を行うよう指示がある。この稲薙には、安芸西条の大内兵に加え、備後内郡の国人である馬屋原氏なども動員され、かなり大規模に行われた。なお、馬屋原氏への指示は毛利氏を通じて行われていることから、備後国内陸部の国人衆については、元就が統率していたと考えられる。年を越した天文18年(1549)2月14日に、元就は元春・隆景を伴って山口へ向かい、3月5日には大内義隆と謁見している。この山口訪問は同年5月まで続いているが、陶隆房も備後から周防へ帰国しており、山口で元就らと会談している。一方、2月には城麓で、4月には七日市や籠屋口で大きな戦いが発生したが、神辺城は持ちこたえていた。大軍を率いて遠地に長期帯陣することを懸念した平賀隆宗の建言により、神辺城の北方にある要害山に向城(要害山城)を築くと、平賀氏の手勢800を残して陶や毛利などの大内主力軍は撤退する。なお、隆宗が城攻めの一任を求めた理由として、理興に対して少なからず遺恨があるためとしている。なお、隆宗が"陣中より"申し出たのは天文18年4月とされる。山名理興と平賀隆宗は幾度も小競り合いを繰り返していたようで、陰徳太平記には、3日間に渡って行われた両者が戦った様子を、"平賀杉原合戦之事として書いている。その後も山名理興と平賀隆宗の対峙は続くが、7月3日に隆宗が陣中で病没する。しかし、残った平賀勢は弔合戦として城攻めを続行。ついに9月4日の夜に、理興は神辺城を捨てて逃亡したことで、神辺合戦は落着した。

「西国観音三十三所巡り」青岸渡寺”西国1番札所“和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院。西国三十三所第一番札所。山号は那智山。本尊は如意輪観世音菩薩

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「西国観音三十三所巡り」青岸渡寺”西国1番札所“和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある天台宗の寺院。西国三十三所第一番札所。山号は那智山。本尊は如意輪観世音菩薩。本堂および宝篋印塔は国の重要文化財。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年平成十六年七月登録)の一部。熊野三山の信仰が都の皇族・貴族に広まったのは平安時代中期以降であり、青岸渡寺および隣接する熊野那智大社についても創建の時期等については判然としない。伝承では仁徳天皇の時代(四世紀)、天竺(インド)から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。後に推古天皇の勅願寺となり、六世紀末 – 七世紀初に生仏聖(しょうぶつひじり)が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたという。以上はあくまでも伝承であるが、那智滝を中心とする自然信仰の場として早くから開けていたと思われる。中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社とともに神仏習合の修験道場であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行に代表される社家や那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点であった。明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の二つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興した。寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われる。

「二十二社巡り」上賀茂神社・山城国一ノ宮・賀茂別雷神社・祭神賀茂(かも)別(わけ)雷(いかづち)大神(おおかみ)

上賀茂神社⑨
「二十二社巡り」上賀茂神社・山城国一ノ宮・賀茂別雷神社・祭神賀茂(かも)別(わけ)雷(いかづち)大神(おおかみ)
京都府京都市北区上賀茂本山339・式内社・山城国一ノ宮・二十二社・旧官幣大社・ユネスコ「世界遺産」登録されている。
加茂川上流に位置して京都では最も古神社の一社。御神体の神山は神武天皇の御世に裏山の御蔭山に降臨(こうりん)したと伝えられている。賀茂御祖神社(下賀茂神社)と共に古代氏族を祀る神社である。
創建には諸説があるが、天武天皇七年(678)と社伝に伝えられている。
国史では文武天皇二年に賀茂祭の騎射が禁じられた記述が有り、天平勝宝二年には御戸代田一町が寄進された記録がある。
元明天皇和銅四年(711)より山城使いとして参向、聖武天皇御世には官弊が奉じられた。
付記すれば上下賀茂同じような後鳥羽上皇、亀山天皇の参篭が有って、建武年間には賀茂伝奏が置かれた。
神領は下社より多く二千百石(下社は五十四石)が寄せられた。
延暦十三年(794)の平安遷都の後は、王城鎮護の神社として尚一層の崇敬をうけた。
賀茂祭は勅祭とされ、『延喜式神名帳』には名神大社と列せられ、名月祭・月次祭・新嘗祭(にいなめさい)・相嘗祭などの各祭の幣帛(へいはく)に依ると記されている。
 『山城国風土記』には玉依(たまより)日売(ひめ)が加茂川の上流から流れてきた丹塗矢を床に置いた所懐妊し、そして生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依(あにたまより)日(ひ)古(こ)の子孫である賀茂県主が一族の奉(ほう)斎(さい)としたと伝える。
丹塗矢の正体は乙訓郡の火雷神の大山咋神とも言った。
 玉依日売とその父の賀茂建角身命は下賀茂神社に祀られている。 平安遷都では王城(おうじょう)鎮護(ちんご)の神社として一層の朝野の崇敬を受け正一位の神階を受けている。
 境内には三十四棟の国宝・重文の建造物がある。中でも細殿の前に円柱形の砂立ては御神体の神山を模ったもので、一種の神籬(依り代)である。
★『古事記』に登場する玉依日売と大山咋神について下記の様に記されている。
◎玉依日売タマヨリヒメは綿津見大神の子で豊玉姫の妹である。天孫(てんそん)降臨(こうりん)の編と草葺不合尊の編でも登場する。
何より、海宮に行った山幸彦の説話は起伏に富んで面白く描かれている。
また身に神霊を宿す女の通称。魂の憑かれる姫・巫女。
◎また玉依日売を妊娠させたと思われる火雷神・大山咋神は大年神とアメノチカルミズヒメの間に生まれた子である。
咋(くらう)は杭を打つ神、すなわち大きな山に杭を打つ神、大山咋神は日枝山(比叡山)は日吉大社と大きな関わりが有って、日吉大社に勧請された大物主神が西宮に祀られ、大山咋神は東宮に祀られている。
賀茂別雷神社の御神体が神山とあって、日吉大社・松尾大社にも巨大な磐座が有って共通点がある。
 何れにせよこち一帯が賀茂一族の先住地域ではなかっただろうか、また神山から神社の間には縄文土器や石器が多く発見されている。
◎賀茂(かも)建(つ)角(み)身命(みこと)は日本神話に出てくる神で、山城の賀茂氏(賀茂県主)の祖師である。賀茂御祖神社(下賀茂)の祭神である。『新選姓氏録』に依れば賀茂建角身命は神魂命の孫である。
また神武天皇の東征の際天照大神・高木神の命を受けて日向の曾の峰に天下り、大和は葛木山に至り、八咫烏に化身をして神武天皇を先導した。
その後『山城風土記』には、大和から葛木山から山代の岡田の賀茂に至り、高野川と鴨川の合流点に鎮まった。賀茂建角身命には二柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主になる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神を床の近くに置いていた所、賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)を妊娠した。


“日本名僧・高僧伝”21・空也(くうや[1])は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価され

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くうや2
“日本名僧・高僧伝”21・空也(くうや[1])は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価される。俗に天台宗空也派[2]と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。後年多くの伝説が語られたが、史実を推定するに足る一次史料は少なく、『空也誄』(くうやるい)[4]や、慶滋保胤の『日本往生極楽記』が、没後間もない時代に記された僅かな記録である。
没年の記録から逆算して、延喜3年(903年)頃の生まれとみられる。生存中から空也は皇室の出(一説には醍醐天皇の落胤)という説が噂されるが、自らの出生を語ることはなかったとされ、真偽は不明。『尊卑分脉』によれば仁明天皇の皇子・常康親王の子とされているが[5]、常康親王は貞観11年(869年)に没しており、年代的にはやや無理がある。延喜22年(922年)頃に尾張国分寺にて出家[4]し、空也と名乗る。若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行い、貴賤(きせん)を問わず幅広い帰依者を得る。天慶元年(938年)京都で念仏を勧める。天暦2年(948年)比叡山で天台座主・延昌のもとに受戒し、「光勝」の号を受ける。ただし、空也は生涯超宗派的立場を保っており、天台宗よりもむしろ奈良仏教界、特に思想的には三論宗との関わりが強いという説もある[7]。貴族や民衆からの寄付を募って観音像や四天王像を造立した。[8]天暦4年(950年)より金字大般若経書写を行う。天暦5年(951年)十一面観音像ほか諸像を造立(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)。応和3年(963年)鴨川の河原にて、大々的に金字大般若経供養会を修する。この際に三善道統の起草した「為空也上人供養金字大般若経願文」が伝わる。これらを通して藤原実頼・藤原師氏ら貴族との関係も深める。天禄3年(972年)東山西光寺(京都市東山区、現在の六波羅蜜寺)において、70歳にて示寂。

『浪速史跡めぐり』四天王寺・亀井堂には「白石玉出の水」が湧いていて、その水で供養した経木(キョウギ)を流すと、極楽往生できるとされます

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『浪速史跡めぐり』四天王寺・亀井堂には「白石玉出の水」が湧いていて、その水で供養した経木(キョウギ)を流すと、極楽往生できるとされます。経木は供養のために教文を書き込むもの。ようはお葬式に使うもの。これを洗うことで極楽にいけるようになります。極楽ってのは、阿弥陀如来が管理する「土地」で、ここに生まれ変わると仏陀になれるって場所です。 日本人は誤解しがちですが、極楽は「あの世」ではなく「現世」です。現世の阿弥陀如来が管理している世界です。そこに「生まれ変わり」ます。仏教には「霊」は無く、死後は別のなにかに生まれ変わります。その生まれ変わる場所として「極楽」だといいよね、ってのが「極楽往生」です。

『戦国時代の群像』80(全192回)「千利休」(1522~1591)大永2年(1522) - 天正19年2月28日(1591)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。

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『戦国時代の群像』80(全192回)「千利休」(1522~1591)大永2年(1522) - 天正19年2月28日(1591)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。幼名は田中与四郎(與四郎)、のち法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。広く知られた利休の名は、天正13年(1585)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗訢は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時は諱(いみな)の「宗易」を使用し、後に宮中参内に際して字(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。なお『茶経』の作者とされる陸羽(りくう)にちなんだものだという説も一部にあるようである。いずれにせよ「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗る。和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。天正13年(1585)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。天正15年(1587)の北野大茶湯を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と耳打ちされた。天正19年(1591)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70 。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。


『歴史の時々変遷』(全361回)153”月山富田城の戦“ 「月山富田城の戦い」1542年から1543年・1565年から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城

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『歴史の時々変遷』(全361回)153”月山富田城の戦“
「月山富田城の戦い」1542年から1543年・1565年から1566年に尼子氏の本拠である出雲国の月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。この合戦は、大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて攻め込んだ第一次月山富田城の戦いと、大内氏滅亡後に毛利元就が行った第二次月山富田城の戦いに分けることができる。なお、第二次の合戦により尼子氏は滅亡したが、その後に尼子氏の再興を目指す勢力が起こした戦いについても、併せて本項で記述する。天文10年(1541)に尼子晴久率いる尼子軍は、毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めたものの、大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城の戦い)。この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸と備後の国人衆は、尼子氏側だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。さらに、安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、陶隆房を初めとする武断派は出雲遠征を主張。相良武任や冷泉隆豊ら文治派が反対するが、最終的に大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。なお、大内氏出陣の少し前となる、天文10年11月には、尼子経久が死去している。9月下旬になって、尼子側は義久の弟である尼子倫久らが援軍を白鹿城に送ったが、毛利軍の包囲網を突破することはできなかった。後詰が敗退したことで城兵の士気は下がり、10月に降伏した。白鹿城を制圧した毛利元就は、尼子氏の拠点を次々と制圧した。毛利水軍によって海上も封鎖し、福原貞俊に鉄砲隊を与えて海岸線の守りを固めており、永禄8年(1565年)春頃には月山富田城への補給線はほぼ断ち切られている。4月17日、毛利軍は月山富田城への総攻撃を行った。月山富田城には城内に通じる道が3つあるため、正面の御子守口(おこもりぐち)を元就率いる軍勢、南側の塩谷口(しおだにぐち)を元春の軍勢、北側の菅谷口(すがたにぐち)を隆景の軍勢が攻めた。それに対して尼子軍は、御子守口を尼子義久率いる軍勢、塩谷口を尼子倫久・山中幸盛らの軍勢、菅谷口を尼子秀久らの軍勢で防いだ。この時、隆元の嫡子・毛利輝元と、元春の嫡男・吉川元長が初陣として参戦している。しかし、士気旺盛な尼子軍は善戦し、連日攻め立てる毛利軍の城内侵入を阻止した。28日に総攻撃を中止した元就は、洗合城に一時撤退した。同年9月、再び毛利軍は月山富田城を包囲した。この時、飯梨川を挟んで対峙していた両軍の中で、山中幸盛(鹿介)が品川将員(狼介)を一騎討ちで討ち取ったとされる(山中幸盛・品川将員の一騎討ち)。しかし、毛利軍は力攻めを行わずに兵糧攻めを続けたため、やがて城内の兵糧が窮迫した。その頃には投降者も出始めていたが、毛利側は城兵の降伏を一切認めず、投降した者は処刑された。こうすることで、孤立した城内に多くの兵が籠もることになり、補給のない中で城の兵糧を食い尽くさせる作戦であった。やがて、冬になり兵糧が底をつき始めたところで降伏を認める高札を立てたため、尼子方の籠城兵が集団で投降するようになった。さらには、尼子氏の譜代の家臣までも投降し始めた。一方の尼子側は、宇山久兼が私財をなげうって購入した兵糧を密かに間道から月山富田城に運び入れつつ、奮闘を続けていた。しかし、尼子義久が讒言を信じて宇山久兼を殺してしまうという一件があり、士気を沮喪していった。永禄9年(1566)11月21日尼子氏は降伏。毛利側は義久ら尼子一族の生命を保証し、28日に城を出た義久らは安芸国に引き取られ幽閉された。なお、和睦の交渉をしている間も逃亡兵が続出していたため、開城時の城兵は僅か300余名だったとされる。また、熊野城など残っていた尼子方の城も月山富田城陥落後に開城した。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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