“日本名僧・高僧伝”20・聖宝(しょうぼう、天長9年(832年) - 延喜9年7月6日(909年8月29日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる

“日本名僧・高僧伝”20・聖宝(しょうぼう、天長9年(832年) - 延喜9年7月6日(909年8月29日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる。俗名は恒蔭王。天智天皇の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)という。諡号は理源大師。『古今和歌集』に歌1首あり。空海の実弟真雅の入室弟子で、源仁(真雅の弟子)の付法弟子。貴顕社会との交流を重視した師真雅に対して...

『浪速史跡めぐり』天王寺塔頭・英霊堂・当堂は明治39年(1906)聖徳太子

『浪速史跡めぐり』天王寺塔頭・英霊堂・当堂は明治39年(1906)聖徳太子のご遺徳を奉賛する頌徳鐘楼として建立され、重量4万2千貫の世界一の大梵鐘が作られたが、その大梵鐘は第二次世界大戦の中供出された。戦後平和の祈りとして、国の為に我が身を捧げられた英霊を祀るお堂として、英霊堂と改名されて建立された。ご本尊は比叡山西塔黒谷よりもたらされた阿弥陀如来像で、左右に持国天、増長天お祀りをしている。...

>『戦国時代の群像』79(全192回) 「島津 義久](1533~1611)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ

『戦国時代の群像』79(全192回)「島津 義久](1533~1611)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久...

『歴史の時々変遷』(全361回)152“大寧寺の変” 「大寧寺の変」天文20年8月28日 - 9月1日(1551)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房

『歴史の時々変遷』(全361回)152“大寧寺の変”「大寧寺の変」天文20年8月28日 - 9月1日(1551)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれる。天文10年(1541)、大内氏の傘下の毛利氏を攻めた尼...

「西国観音三十三所巡り」頂法寺”(六角堂)西国一八番札所“京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。正式の寺号は頂法寺であるが

「西国観音三十三所巡り」頂法寺”(六角堂)西国一八番札所“京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。正式の寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見...

霊場巡り」四条畷神社・大阪府四条畷にある神社で建武中興の十五社の一社である。南軍の将として戦い、四条畷の戦いに敗死した楠木正成

霊場巡り」四条畷神社・大阪府四条畷にある神社で建武中興の十五社の一社である。南軍の将として戦い、四条畷の戦いに敗死した楠木正成(大楠公)の息子楠木正行を祀る神社である。主祭神に楠木正行を祀り、二四柱の相祀楠木政時、楠木正家子息、和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門子息、大塚惟久、畠山興三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息、金岸(某)金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三...

“日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。

“日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号(しごう)は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。弘仁5年(814年)讃岐国(香川県)金倉郷に誕生。多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もし...

>『浪速史跡めぐり』大村益次殉難報国碑・上町筋は難波宮の向い角に大きな「大村益次郎殉難報国碑」建っている

『浪速史跡めぐり』大村益次殉難報国碑・上町筋は難波宮の向い角に大きな「大村益次郎殉難報国碑」建っている。山口県出身の大村益次郎は緒方洪庵の適塾に学び、宇和島藩や江戸幕府に用いられたが、やがて長州に呼び戻され、第二次長州征伐に用兵を認められた。後に討幕軍の総司令官となり、兵部大輔に任じられて、徴兵制度など近代日本の陸軍の構想を立て「日本陸軍の祖」と言われている。明治二年に暴徒に襲われ重症を負い、浪華...

『戦国時代の群像』78(全192回)「黒田 孝高」(1546~1604)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった

『戦国時代の群像』78(全192回)「黒田 孝高」(1546~1604)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。諱(実名)は初め祐隆、孝隆、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名と...

『歴史の時々変遷』(全361回)151”吉田郡山城の戦い“ 「吉田郡山城の戦い」天文9年(1540)から天文10年(1541)まで安芸国吉田の吉田郡山城(

『歴史の時々変遷』(全361回)151”吉田郡山城の戦い“「吉田郡山城の戦い」天文9年(1540)から天文10年(1541)まで安芸国吉田の吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、大内氏に従属していた毛利氏当主・毛利元就と尼子詮久(後の尼子晴久)との戦い。実際は城外での戦闘が主で、いわゆる籠城戦ではなかったため、郡山合戦とも呼ばれる。安芸国の吉田を治める国人領主であった毛利氏は、周防の大内氏に長年服属し...