「西国観音三十三所巡り」善峯寺・“京都府京都市西京区大原野にある寺院。山号は西山。西国三十三所第二十番札所。善峰観音宗。

「西国観音三十三所巡り」善峯寺・“京都府京都市西京区大原野にある寺院。山号は西山。西国三十三所第二十番札所。善峰観音宗。桜や紅葉の名所になっているとともに境内各所から京都市街、比叡山を一望できる。寺に伝わる『善峯寺縁起絵巻』(江戸時代)等によれば、長元二年(1029年)、源信の弟子にあたる源算が創建したという。その後、長元七年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜った。鎌倉時代初期には慈円が...

「一ノ宮巡り」伊勢一ノ宮・都波岐神社・奈加等神社・祭神猿田彦大神・天椹あまのくに野の命みこと・中筒之男命・三重県鈴鹿市一ノ宮町1181・式内社・県社・伊勢国には一ノ宮は二社がある

「一ノ宮巡り」伊勢一ノ宮・都波岐神社・奈加等神社・祭神猿田彦大神・天椹あまのくに野の命みこと・中筒之男命・三重県鈴鹿市一ノ宮町1181・式内社・県社・伊勢国には一ノ宮は二社がある。都波岐神社・奈加等神社とも式内社で旧県社、相殿で祀られている。社伝によれば、雄略天皇二十三年、勅により造高雄束命が伊勢国河曲群中跡村に社殿を二つ造営し、それぞれ都波岐神社・奈加等神社と称したのが起源とされ『延喜式神名帳』...

“日本名僧・高僧伝”16・実恵(じちえ/じつえ・実慧、延暦5年(786年)?- 承和14年11月13日(847年12月24日))は、平安時代前期の真言宗の僧。空海の十大弟子の一人。

 “日本名僧・高僧伝”16・実恵(じちえ/じつえ・実慧、延暦5年(786年)?- 承和14年11月13日(847年12月24日))は、平安時代前期の真言宗の僧。空海の十大弟子の一人。 俗姓は佐伯氏、讃岐国の出身で空海の一族。檜尾僧都・道興大師とも称される。初代東寺長者とされている。生涯*延暦年間(782年-806年)、奈良東大寺の泰基に法相(唯識)を学ぶ。*大同2年(807年)、受戒(一説に延暦23年(804年))。*弘仁元年...

『浪速史跡めぐり』野江水神社と榎並城跡・地下鉄は野江内代駅から南に榎並小学校がある。榎並庄は古来城東区から都島区

『浪速史跡めぐり』野江水神社と榎並城跡・地下鉄は野江内代駅から南に榎並小学校がある。榎並庄は古来城東区から都島区にかけ摂関家の広大な荘園であった。また榎並猿楽発祥の地として、榎並城跡伝承の地としての碑が建つ、榎並城は江口の戦いで三好政長が築き、小城ながら淀川、旧大和川に包まれた天然の要塞で、ちょうど今の「野江水神社」辺りが僅かに高台になっており周りの河川に三好政長が度々水害に遭い、それを鎮めるため...

『戦国時代の群像』76(全192回) 豊臣 秀長・(羽柴秀長)(1540~1591)または羽柴 秀長

『戦国時代の群像』76(全192回) 豊臣 秀長・(羽柴秀長)(1540~1591)または羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の異父弟(同父弟説もある[1])。秀吉の信頼厚く、その片腕として辣腕を揮い、豊臣政権において内外の政務および軍事の両面で活躍を見せ、天下統一に大きく貢献した。最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の...

『歴史の時々変遷』(全361回)149”上田原の戦い“ 「上田原の戦い」天文17年2月14日(1548)に信濃国上田原

『歴史の時々変遷』(全361回)149”上田原の戦い“ 「上田原の戦い」天文17年2月14日(1548)に信濃国上田原(長野県上田市)で行なわれた、甲斐国の戦国大名武田晴信(後の信玄)と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信はこの合戦で重臣と多くの将兵を失い、初めての大敗を喫した。上田原は、千曲川南岸に展開する段丘平野で、現在は上田原古戦場として保存されている...

「西国観音三十三所巡り」穴太寺・”西国21番札所“亀山市は摂丹街道の、のどかな田園風景の中に、古風で重厚な伽藍

「西国観音三十三所巡り」穴太寺・”西国21番札所“亀山市は摂丹街道の、のどかな田園風景の中に、古風で重厚な伽藍が突如視界に入る。丹波路の古刹「穴太寺」で西国三十三カ所二十一番札所である。正式は菩提山穴太寺である、地域のひとびとからは「あなおさん」と親しまれ、文武天皇の勅願で左大弁は大伴古麻呂が本尊薬師如来を安置して創建された。札所の本尊は聖観音菩薩である。この聖観音像は応和二年(962)丹波国郡司宇...

京都十六社巡り・今宮神社・祭神中御座・大巳貴命・東御座・事代主命・西御座・奇稲田姫命

京都十六社巡り・今宮神社・祭神中御座・大巳貴命・東御座・事代主命・西御座・奇稲田姫命・ 京都市北区紫野今宮町21・当社地には平安建都以前より疫神を祀る社があったといわれる。建都ののち平安京が都市として栄える一方で、人々はうち続く疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため神泉苑、御霊社、祗園社など各地で盛んに御霊会が営まれた。今宮社の紫野御霊会もその一つである。すなわち、一条天皇の御代正暦五年(994)...

“日本名僧・高僧伝”15・玄叡(げんえい、生年不詳 - 承和7年(840年))は、平安時代前期の三論宗の僧。

“日本名僧・高僧伝”15・玄叡(げんえい、生年不詳 - 承和7年(840年))は、平安時代前期の三論宗の僧。出自については不詳である。大安寺安澄に三論教学を学び、その後は奈良西大寺に住した。826年(天長3年)権律師に任じられ、翌827年(天長4年)には宮中薬師如来像慶讃の法座で宗義を講じ律師に任じられた。830年(天長7年)淳和天皇の命による天長六本宋書の一つとして、三論宗を代表して「大乗三論大義鈔」を撰述し、...

『戦国時代の群像』75(全192回)山本 勘助(?~1561)戦国時代の武将。『甲陽軍鑑』においては名を勘介

 『戦国時代の群像』75(全192回)山本 勘助(?~1561)戦国時代の武将。『甲陽軍鑑』においては名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助[2]子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱につ...