「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

「西国観音三十三所巡り」粉河寺“西国3番札所”・天台宗系の粉河観音宗総本山の粉河寺は西国観音三番札所、本尊は千所観音菩薩。

こ粉河寺2
「西国観音三十三所巡り」粉河寺“西国3番札所”・天台宗系の粉河観音宗総本山の粉河寺は西国観音三番札所、本尊は千所観音菩薩。伝承によれば宝亀元年(770)大伴孔子古によるとされている。「粉河縁起」には二つの説があって一つ目は千手観音の由来する紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を結んだ。それが粉河寺の始まりと云う説とある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねてきて、今晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、七日かけて千手観音菩薩を刻んだ。八日目に孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は猟師の仕事を辞め殺生をやめて観音を信仰するようになった。二つ目は千手観音の霊験説話で、河内国の長者左大夫の娘は重い病で明日をも知れない命、そこの現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷した所、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと差し出した財宝に童行者は受け取らず、娘の小太刀の紐だけ受け取り「私は紀伊国那賀郡に居ります」言って立ち去った。長者が那賀郡に尋ね小さな庵に千手観音像と娘の小太刀の紐だけが残され、長者は観音の化身と知ってその場で出家し、孔子古と共に粉河寺を祀り繁栄をさせた。この説話に拠ってか平安時代には朝廷や貴族の信仰の加護で大いに栄えたという。天正時代には豊臣秀吉の根来攻めで、あおりを受けて全山伽藍の全てが焼失した。その後江戸時代になって再建された。

「京都16社巡り」市比買神社祭神・神大市比賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、多紀理比賣命

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「京都16社巡り」市比買神社祭神・神大市比賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、多紀理比賣命、下照比賣命京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入・御祭神は全て女神様をお祀りしているところから女性の守り神とされ、全ての女性のお願い事にご利益があります。特に時の皇后陛下がお受けになられた「女人厄除け祈祷」は有名で、全国から女性の参拝者が絶えません。 また、平安時代より市場の守り神である市比賣社は、「誓約(うけひ)の神(物事の流れを良くする神様)」として多くの人々で賑わってきました。昭和2年、京都に日本初の「中央卸売市場」が開設された折、分社として「市姫神社」が祀られ今現在も市場敷地中央にご鎮座されています。「五十日百日之祝(いかももかのいわい)」は生後五十日目・百日目に、当社御神水「天真名井(あめのまない)」により、つき上げられた「五十日之餅・百日之餅(いかのもち・ももかのもち)」を授かり、子供の口に含ませ健やかな成長を願う現在のお食べ初めの発祥・源流として知られています。これは『源氏物語』など多くの古典文学にも描かれ、歴史にその名を残している。

“日本名僧・高僧伝”20・聖宝(しょうぼう、天長9年(832年) - 延喜9年7月6日(909年8月29日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる

聖放
聖砲
“日本名僧・高僧伝”20・聖宝(しょうぼう、天長9年(832年) - 延喜9年7月6日(909年8月29日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる。俗名は恒蔭王。天智天皇の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)という。諡号は理源大師。『古今和歌集』に歌1首あり。空海の実弟真雅の入室弟子で、源仁(真雅の弟子)の付法弟子。貴顕社会との交流を重視した師真雅に対して、華美や権勢と一定の距離を置き、清廉潔白・豪胆な人柄として知られた。真雅在世中に真言宗の傍流的位置にとどまっていた背景には、真雅との確執があったとも言われる。出家から長い間三論宗を中心に南都諸宗を学んでいたが、壮年期以降、本格的に受法して真言密教正嫡となり、宇多天皇の厚い帰依を受けて東寺長者、僧正などの重職に昇った。また、役小角に私淑して吉野の金峰山(きんぷせん)で山岳修行を行うとともに、参詣道の整備や仏像造立などで金峰山の発展に尽力した。このため、聖宝を、役小角以降途絶えていた修験道の再興の祖とする伝承が生まれた。聖宝の著作と伝えられる修験道関係の書は、今日では、すべて聖宝に仮託して後世に書かれたものとみられている。◎経歴*承和14年(847年)、16歳のとき真雅(当時、東大寺別当)に随い出家。東大寺に入る。はじめ元興寺の円宗、願暁から三論宗を学び、次いで東大寺の平仁に法相宗、玄永に華厳宗を学ぶ。諸宗を学んだが、三論を本宗とした。*貞観11年(869年)、興福寺維摩会の竪義を勤める。*貞観13年(872年)、真雅に無量寿法を受ける。*貞観16年(875年)6月、山城国宇治郡の笠取山(醍醐山)[2]の山頂に醍醐寺(上醍醐)を開創したと伝えられる。*元慶3年(879年)2月、弘福寺別当に任ぜられる。*元慶4年(880年)、真然に両部大法を受ける。*元慶8年(884年)、源仁から伝法灌頂を授けられる。*仁和3年(887年)3月、朝廷から正式に伝法灌頂職位を授けられる。*寛平2年(890年)8月、貞観寺座主に任ぜられる[3]。:寛平6年(894年)12月、権律師、権法務に任ぜられる。弘福寺検校に任ぜられる。*寛平7年(895年)2月、東寺二長者となる。*寛平8年(896年)、東寺別当を兼ねる。:寛平9年(897年)12月、少僧都に任ぜられる。*昌泰2年(899年)、一説に宇多法皇が東大寺で受戒したとき戒和尚を務める。*延喜元年(901年)1月、大僧都に任ぜられる。*延喜2年(903年)3月、権僧正に任ぜられる。*延喜5年(905年)7月、佐伯氏の氏人から東大寺東南院を付属され、院主となる[4]。東南院は聖宝の門流によって代々継承され、三論教学の拠点として発展。*延喜6年(906年)10月、僧正に任ぜられる。法務となる。東寺一長者となる。*延喜7年(907年)、醍醐寺が醍醐天皇御願寺となる。以後、山麓の下醍醐を中心に飛躍的に発展。醍醐天皇のため准胝堂で朱雀・村上両帝の誕生を祈ったと伝えられる。*延喜9年(909年)4月、病床に就く。宇多法皇、陽成上皇が普明寺に病気を見舞う。* 6月、上表して僧正を辞する。7月6日、入滅。享年78。宝永4年(1707年)1月、理源大師の諡号を賜る。

『浪速史跡めぐり』天王寺塔頭・英霊堂・当堂は明治39年(1906)聖徳太子

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『浪速史跡めぐり』天王寺塔頭・英霊堂・当堂は明治39年(1906)聖徳太子のご遺徳を奉賛する頌徳鐘楼として建立され、重量4万2千貫の世界一の大梵鐘が作られたが、その大梵鐘は第二次世界大戦の中供出された。戦後平和の祈りとして、国の為に我が身を捧げられた英霊を祀るお堂として、英霊堂と改名されて建立された。ご本尊は比叡山西塔黒谷よりもたらされた阿弥陀如来像で、左右に持国天、増長天お祀りをしている。

>『戦国時代の群像』79(全192回) 「島津 義久](1533~1611)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ

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『戦国時代の群像』79(全192回)
「島津 義久](1533~1611)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。天文2年(1533年)2月9日、第15代当主・島津貴久の嫡男として伊作城に生まれ、幼名は虎寿丸と名づけられた。幼少の頃は大人しい性格だった。しかし祖父の島津忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と兄弟の個性を見抜いた評価を下しており、義久に期待していた。元服した直後は祖父と同じ忠良(ただよし)を諱とし、通称は又三郎と名乗った。後に第13代将軍・足利義輝からの偏諱(「義」の1字)を受け、義辰(よしたつ)、後に義久と改名している(以下、本記事中では全て義久と記す)。天文23年(1554)、島津氏と蒲生氏・祁答院氏・入来院氏・菱刈氏などの薩摩・大隅国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。以後、国衆との戦いに従事しており、弘治3年(1557)には蒲生氏が降伏し、永禄12年(1569)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌元亀元年(1570)には東郷氏・入来院氏が降伏、ようやく薩摩統一がなった。この薩摩統一の途上であった永禄9年(1566年)、義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主となっている。最後に残った日向国に関しては天正4年(1576)伊東氏の高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退の一途を辿る。こうして伊東義祐は豊後国の大友宗麟を頼って亡命し、三州統一という島津氏の悲願が達成された。伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が天正6年(1578)10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。宗麟は務志賀(延岡市無鹿)に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周・佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟・島津家久を置いていたが、大友軍が日向に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠けていた。大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。無秩序に攻めてくる大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信や斎藤鎮実、軍師の角隈石宗など主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。 この大友氏の敗退に伴い、宗麟が守護を務める肥後国から、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じてくる。天正9年(1581)には球磨の相良氏が降伏、これを帰順させている。耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘・家久に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は天正10年(1582)、龍造寺方の千々石城を攻め落として300人を打ち取った。これを機に、晴信は人質を差し出し、島津氏に服属した。翌年、有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊が龍造寺氏に背いた。島津軍は八代に待機していた新納忠堯・川上忠堅ら1000余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。天正12年(1584年)、龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子、筑前国の秋月種実らが、次々と島津氏に服属や和睦していった。天正13年(1585)、義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光を下した(阿蘇合戦)。これにより肥後国を完全に平定し、義弘を肥後守護代として支配を委ねた。この危機に大友宗麟は豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられた(「惣無事令」)。島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視し、大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じた。天正14年(1586)7月、義久は八代に本陣を置いて筑前攻めの指揮を取った。筑前へ島津忠長・伊集院忠棟を大将とした2万余が大友方の筑後国の筑紫広門を攻めた。島津軍の猛攻を受け、広門は秋月種実の仲介により開城し軍門に降った。これを見て、筑後の原田信種、星野鎮種、草野家清ら、肥前の龍造寺政家の3,000余騎、豊後の城井友綱と長野惟冬の3,000余騎など、大名・国衆が参陣した。天正15年(1587)、豊臣軍の先鋒・豊臣秀長率いる毛利・小早川・宇喜多軍など総勢10万余人が豊前国に到着し、日向国経由で進軍した。続いて、豊臣秀吉率いる10万余人が小倉に上陸し、肥後経由で薩摩国を目指して進軍した。豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘・家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下った。秀長軍は山田有信ら1,500余人が籠る高城を囲んだ。また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰してくる島津軍に備えた。島津軍は後詰として、義弘・家久など2万余人が根白坂に一斉に攻め寄せたが、島津軍は多くの犠牲を出し、本国へと敗走した。秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義弘の子・久保(義久には男児が無かったため、甥の久保に三女・亀寿を娶わせ後継者と定めていた)に日向国諸縣郡を宛行った。またこの際、伊集院忠棟には秀吉から直々に大隅のうちから肝付一郡が宛行われている。かつて九州の大半を支配していた島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵や高橋元種といった新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいては京都にいた義弘は西軍に加担することになる。この間、再三義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。戦後、西軍への荷担は義弘が行ったもので、義久はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始する。家康に謝罪するため忠恒が上洛しようとするが、義久は「上洛は忠孝に欠けた行い」と反対している[6]。 忠恒は義久や義久の家臣の反対を振り切って上洛した。義久は忠恒の上洛を追認し「病のために上洛できないため、代わりに忠恒が上洛する」と書状を送っている。結果的に島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下った。徳川家康による領土安堵後の慶長7年(1602)、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。この頃の体制を指して「三殿体制」とよぶ。慶長9年(1604)には大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築き、移り住んだ。しかし、娘・亀寿と忠恒の不仲などから関係は次第に悪化したと言われる。忠恒・亀寿夫妻の間には1人も子が無かったことから外孫の島津久信を家久の次の後継者に据えようとしたが失敗したとされる。また、義弘・忠恒親子が積極的に推進した琉球出兵にも反対していたとされる。慶長15年頃には「龍伯様(義久)、惟新様(義弘)、中納言様(忠恒)が疎遠になられ、召し使う侍も三方に別れ、世上に不穏な噂が流れて」いたという。慶長16年(1611)1月21日、国分城にて病死した。享年79。辞世は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」。

『歴史の時々変遷』(全361回)152“大寧寺の変” 「大寧寺の変」天文20年8月28日 - 9月1日(1551)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房

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『歴史の時々変遷』(全361回)152“大寧寺の変”
「大寧寺の変」天文20年8月28日 - 9月1日(1551)にかけて起こった、周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた政変。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の本能寺の変と並ぶ下克上の事例ともいわれる。天文10年(1541)、大内氏の傘下の毛利氏を攻めた尼子氏は敗退した(吉田郡山城の戦い)。これを契機に、周防の戦国大名である大内義隆は、大内家臣団でも武功派である陶隆房らの主導のもと、天文11年(1542)に大軍を率いて尼子氏の本国・出雲への遠征に臨んだが、月山富田城に籠もって徹底抗戦する尼子晴久を攻めあぐねる(第一次月山富田城の戦い)。ついには、越年した天文12年(1543)2月に大内軍は総崩れとなり、大将・義隆は周防に敗走、甥で養子の大内晴持に至っては敗走途中の揖屋浦で溺死するなど、大内方は散々な結果を迎えた。これにより、勢力の回復を図ろうとして活発化する尼子氏に対して、安芸・石見・備後などでは大内諸将や毛利元就らが対抗して出陣するなど、慌ただしくなっていった。9月15日に仁壁神社・今八幡宮で行われた例祭での参詣を義隆は急遽欠席し、右田隆次を代参させた。これは「隆房が、義隆・武任を幽閉する」という噂で、義隆側が警戒したものと考えられている[2]。翌16日に義隆は隆房を呼び出して詰問するが、隆房は無実を主張した[4]。他方、武任は同日(16日)に再び大内家から出奔し、石見の吉見正頼の元に逃げていた。11月下旬より隆房は、病気と称して居城若山城(周南市)に籠もり、年が明けた2月の修二月会大頭役の勤めも果たさなかった(隆房が同役を勤めることは前年から決まっていた)[2]。この時、義隆も隆房らの謀反を恐れて、自ら甲冑を着けて居館に立て籠もり、さらに隆房に詰問使を送るなどしたことから、義隆と隆房の仲は最悪の事態を迎えた。天文20年(1551)1月、出奔していた武任が、筑前守護代の杉興連によって身柄を確保された。この一連の騒動で義隆から責任を追及されることを恐れた武任は、相良武任申状において弁明し、「陶隆房に謀反の疑いがあると主張したのは杉重矩である。しかし、その注進が受け入れられなかった重矩は、(隆房の怒りを買わないように保身のため)讒訴を自分(武任)がしたとすり替えて隆房に近づき、対立していたはずの隆房に寝返った。両名は内藤興盛と共に何か画策している」という根も葉もない讒訴を行なった。つまり、隆房が謀反を起こそうとしており、その対立が生じた責任を杉重矩1人に押し付けて、自らには責任が無いと申し立てたのである。どちらかというと義隆擁護派であった重矩が隆房の謀反に協力するようになったのは、隆房を疑わない義隆に失望したとも[3]、相良武任申状で讒訴されたことを知ったからともされる。4月に義隆は、武任を周防に連れ戻して出仕させた。それに対抗するように隆房らは翌5月、大友義鎮の異母弟・大友晴英(義隆の姉の子=義隆の甥)を大内新当主として擁立する旨に協力を願う密使を大友氏に送る。北九州における大内領の利権を割譲する代わりに、晴英を貰い受けることで、晴英の快諾と義鎮の許諾を得ている。8月10日、武任は隆房を恐れて、大内家から三度目の出奔して筑前に逃走する。8月20日、隆房は興盛らと共に挙兵。陶軍は最初に東の厳島の神領と桜尾城を接収、呼応して出陣した毛利軍も佐東銀山城や近隣地域(広島市安佐南区)を接収して、山陽道の要衝を押さえた。8月28日に若山城から出陣した陶軍は、隆房率いる本隊が徳地口から、陶家臣の江良房栄・宮川房長率いる別働隊が防府口から山口に侵攻した。山口に入ったのは同日正午頃で、杉・内藤の軍勢も呼応して陶軍の陣営に馳せ参じた。陶軍は兵力5,000〜10,000と言われる。法泉寺の義隆軍は逃亡兵が相次いだことから、翌29日には山口を放棄して長門に逃亡。法泉寺には、陶隆康が殿として残って討ち死にしている。なお、継室のおさいの方は、山口宮野の妙喜寺(現在の常栄寺)に逃れた。義隆は、足を痛めながらも明朝には長門仙崎にたどり着き、海路で縁戚に当たる石見の吉見正頼を頼って脱出を図ったが、暴風雨のために逃れることができなかった。引き返した義隆らは長門深川の大寧寺に入り、隆豊らと共に戒名を授かると、9月1日の10時頃に自害した(中国治乱記)。隆豊は義隆の介錯を務めた後、陶軍の中に突撃して壮絶な討死にしたと伝えられる。また、義隆の嫡男・大内義尊は従者と共に逃亡するが、2日に陶方の追っ手によって殺害された。ただし、義隆の次男(義尊の弟)である問田亀鶴丸は、母方の祖父が内藤興盛の孫(興盛の娘の子)であることもあり助命された。さらに、義隆を頼って京より下向していた二条尹房や前左大臣三条公頼(武田信玄正室・三条の方の父)、そして継室おさいの父官務家小槻伊治らの公家も殺害された。特に、前権中納言持明院基規は悲惨な最期だったとされており、義隆を取り巻いていた公家達は、謀反を起こした隆房ら武断派の憎悪を買っていたと思われる。相良武任と、武任を匿っていた杉興連ら義隆派は、隆房が筑前に送り出した野上房忠の軍勢により花尾城で攻め殺される。武任の首は、隆房によって山口で晒された。9月4日、元就は東西条の大内領に兵を進め、義隆派の平賀隆保が籠もる頭崎城を攻めた。隆保は頭崎城から逃亡して、槌山城の菅田宣眞の元に入った。元就は、吉川・小早川・宍戸らと共に軍勢4000で槌山城を攻め、11日に降伏させた。陶氏と姻戚関係にあった石見七尾城主の益田藤兼が、義隆方の吉見正頼を攻撃。しかし、吉見氏の支城能登呂山城攻めは、吉見家臣・下瀬頼定の防戦により失敗した。また、相良武任の子である虎王を捕らえて殺害している。天文21年(1552)1月に隆房は、杉重矩を長門万倉(宇部市)の長興寺で自害に追い込む。これは、重矩が義隆に隆房を讒訴していたことを知ったため(変後に相良武任申状を入手した)と言われている。同年3月には、大友晴英を山口に迎えた。新たな大内家当主として家督を継がせた晴英を、大内義長と改名させると、隆房自らも新たな主君・晴英(義長)へ忠誠を誓う証として晴賢へと改名。こうして、晴賢は義長を傀儡の当主として大内家の実権を掌握した。



「西国観音三十三所巡り」頂法寺”(六角堂)西国一八番札所“京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。正式の寺号は頂法寺であるが

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「西国観音三十三所巡り」頂法寺”(六角堂)西国一八番札所“京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。正式の寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。これらの縁起が伝える創建伝承は大略以下のとおりである。敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという。以上のように六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。また、京都に乱入する土一揆や天文法華の乱などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。天治二年(1125年)の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。現在の本堂は、明治十年(1877年)に再建されたものである。


霊場巡り」四条畷神社・大阪府四条畷にある神社で建武中興の十五社の一社である。南軍の将として戦い、四条畷の戦いに敗死した楠木正成

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霊場巡り」四条畷神社・大阪府四条畷にある神社で建武中興の十五社の一社である。南軍の将として戦い、四条畷の戦いに敗死した楠木正成(大楠公)の息子楠木正行を祀る神社である。主祭神に楠木正行を祀り、二四柱の相祀楠木政時、楠木正家子息、和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門子息、大塚惟久、畠山興三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息、金岸(某)金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息、河邊石菊丸、譽田(某)阿間了願、青屋刑部を祀っている。由来は河内国賛良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。明治期に明治政府によって南朝が正当化され、正行は父である正成が大楠公と崇められ、その子の正行は小楠公として「小楠公御墓所」として拡充され、飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となって、楠木氏らの祀る神社の創建の願いを願い出た。明治二三年(1889)神社設立と別格官幣社四条畷神社の社号を宣下が下され翌年、住吉平田神社の南隣に創建をした。その後この地に大阪から浪速鉄道が四条畷駅まで開通し神社周辺は大いに栄えた。

“日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。

円珍1
円珍2
“日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号(しごう)は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。弘仁5年(814年)讃岐国(香川県)金倉郷に誕生。多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り義真に師事、12年間の籠山行に入る。承和12年(845年)役行者の後を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。承和13年(846年)延暦寺の学頭となる。仁寿3年(853年)新羅商人の船で入唐、途中で暴風に遭って台湾に漂着した。天安2年(858年)唐商人の船で帰国。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様。その後、比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となる。寛平3年(891年)入寂、享年78歳。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上も注目される。著作は90を数え、円珍の教えを知る著作である「法華論記」「授決集」の他、自身の書いた入唐旅行記の「行歴抄」など著名である。『智証大師全集』全3巻がある。「行歴抄」では、円載との確執が描写されている。円珍は、園城寺では宗祖として尊崇され、同寺には国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。同寺唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と称する2体の智証大師像があり、いずれも国宝に指定されている。いずれの像も頭頂が尖り、頭部の輪郭が卵型を呈する独特の風貌に特徴がある。書風は「枯枝のような」と評される独特のものである。真跡は20余点現存し、その代表的なものは次のとおりである。

>『浪速史跡めぐり』大村益次殉難報国碑・上町筋は難波宮の向い角に大きな「大村益次郎殉難報国碑」建っている

お大村益次郎
『浪速史跡めぐり』大村益次殉難報国碑・上町筋は難波宮の向い角に大きな「大村益次郎殉難報国碑」建っている。山口県出身の大村益次郎は緒方洪庵の適塾に学び、宇和島藩や江戸幕府に用いられたが、やがて長州に呼び戻され、第二次長州征伐に用兵を認められた。後に討幕軍の総司令官となり、兵部大輔に任じられて、徴兵制度など近代日本の陸軍の構想を立て「日本陸軍の祖」と言われている。明治二年に暴徒に襲われ重症を負い、浪華仮病院でオランダ医師ボードウイーンに手当てを受けるが、敗血症で没した。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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